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重清城跡登城日:(2008.07.26) 所在地: 美馬市美馬町 |
歴史 |
小笠原家は清和源氏の裔にして小笠原左京大夫信濃守源長時阿波国守護職となる四代長房の孫長親が重清に築城したといわれている。この城は本丸の東方と南方に土盛で二条の空堀を設け北と西は城ヶ谷川と呼ばれる深い切り込みのある絶壁で守られ北は讃岐山脈の南斜面に守られ天然の要害をなしていた。また山脈の中腹には狼煙小屋を置き常時番人がつめていたといわれている。室町期に入り、新守護細川氏が阿波に入るにともない、小笠原一族はこれに抵抗、戦うが、重清城は早くその支配下に入り、正平十八年一の宮城の小笠原宮内大輔成宗も服従し、ここ重清城に退隠している。当時の重清城の貫高は二百貫といわれ、吉野川中流平野部の緒さえの拠点であた。 ついで動乱の戦国時代に入り、土佐の長宗我部元親は四国制覇の野望のもと、大挙して南北から阿波に侵入する。土佐軍は池田の大西城を落とし、ここ重清城に迫るが、難攻不落の城を攻めあぐみ、天正六年、大西上野介(白地城主大西覚養の弟)、その従兄弟の中島城主久米刑馬の二人を手先に使い、降伏を勧告する。その話し合いの途中、城主小笠原豊後守長政とその子弟を謀殺し、重清城は落ちる。その後、大西覚養が城主となったが、讃岐の十河存保に反撃され、城は一旦小笠原氏にもどる。同年夏、長宗我部軍再度の来攻で敗退し、再び長宗我部軍に奪われ、天正十三年、豊臣秀吉の四国攻めごろまでは存続したものと推定されるが、その後は廃城となった。 現在城跡南の台地に、大正十五年作られた、従五位小笠原豊後長政公蒋土英魂の石碑がある。 ◆重清城の井戸 この井戸は、重清城内の東北隅にあり、当時は城兵の命の井戸であった。 井戸の深さは約7.8メートルで、そのうち水深は約2メートルである。直径は約90センチメートルであるが、底の方ではやや広くなっているようである。 井戸の周囲を巻いている石垣は、近辺で採れる砂岩製の自然石で、ほとんど加工しないで積んだものがあるが、400年以上経った今日でも保存状態はきわめて良好で、済んだ水をたたえている。 徳島県下に残る多数の中世城郭の中でも、このような井戸の残っている所はきわめて少なく、それだけに大切に残していきたい遺跡である。 『重清城跡案内板』より
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資料 |
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私見 |
県道12号線の重清西小からみて約500メートル西にある信号を北上しますが、信号が2つ連続している西側のほうです。急な斜面を一気に登り切ると田園が広がる穏やかな景色となります。そのまま道なりに進むと重清城の案内板がありますのでわかりやすいと思います。この辺には「城」という字名もあるようですので、地図を頼りに来られる場合もわかりやすいかもしれませんね。 城跡は東南隅から入ることになりますが、二重の空堀を目の前にしていきなり感動でした。と言っても現在は草が伸び放題でかろうじて中央を走る土塁がなんとなくわかる程度です。郭内は土塁が囲んでおり、東南側には物見があったかのような出っ張りがあります。この重清城のことは事前知識がないままの訪問でしたが、案内板にあるような堅牢ぶりは今でもうなずけるものがあります。徳島県のお城はまだそんなに見ていませんが、それでもこの重清城は十分見ごたえのある貴重な遺構があることは言えます。晩秋から冬場にかけて訪問すれば二重の空堀もよく確認できて、いいでしょうね。
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