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大江氏館跡
登城日:(2002.08.24)
所在地: 八王子市山田町1577番地、広園寺
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史 大江氏館跡である広園寺  丘陵を背に南面し、総門・山門・仏殿が南北の一直線上にあり、中間東方に鐘楼がある。背後には石垣をもって一段高く本堂・庫裡・間山堂が東西に接続している。本堂・庫裡の裏手には丘陵に拠って江戸時代中期を下らない造園がある。
 広園寺は、新編武蔵風土記稿によると、康応元年(1389)八月、東南方約二キロメートルの地点にある片倉城(都旧跡)の城主大江備中守師親が、岐翁令山和尚を請じて開創したと伝え、関東管領足利満兼が壇越となり三百町歩の土地を寄進したというが詳かでない。
 往時の応永十二年(1405)に「無門関」を開板刊行したことは有名であるが、天正十八年(1590)秀吉の小田原攻めに際し兵火にかかり諸堂が焼失した。現堂塔は徳川中期以降の再建になるものである。

◆総門・山門・仏殿・鐘楼
 広園寺は康応元年(1389)の開創と伝えられ、天正十八年(1590)秀吉の小田原攻めに際し、八王子城も攻略された。この時当寺は兵火にかかり諸堂も焼失したが、同十九年(1591)家康から十五石の朱印を受け再興を命ぜられたという。総門・山門・仏殿・鐘楼もその後の建築になるものである。総門は桁行一間・梁間一間・一重で切妻造。山門は三間一戸、二重門、入母屋造で諸町時代の寺号額を掛けている。仏殿は桁行三間・梁間三間、一重寄棟造。鐘楼は桁行一間、梁間一間、一重、宝形造で、応永四年(1397)および応仁三年(1468)の旧銘および慶安二年(1649)の改鋳銘をもつ銅鐘がある。

『広園寺案内板』より

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資料  

私見 大江氏館跡である広園寺  片倉城からバイクで約5分ほどの距離のところに広園寺がありました。背後に丘陵をおき、前面は川が流れ、また見通しのいいロケーションを考えてみると確かにここに土豪の居館があったのかなぁと思わせるものは十分ありました。が、残念ながら館跡としての遺構は特になく、案内板があるのみでした。
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