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岩倉城跡
登城日:(2004.03.20)
所在地: 倉吉市岩倉
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
非常にわかりにくい登城口です  小鴨氏は、律令時代−奈良・平安時代−すでに名があり、伯耆国庁につとめた在庁官人の家柄と考えられている。平安時代の末期に、寿永元年(282)小鴨基保が西伯耆の豪族紀成盛と戦った記録がある。
 鎌倉時代に、小鴨氏は岩倉山(海抜247メートル)の山上に砦を築き、ここを代々の居城とした。
 元弘三年(1333)後醍醐天皇が船上山に潜幸の際、名和氏の軍勢により小鴨城が攻略されたという記事もあるが、よくわからない。
 応仁の乱(1467〜1477)には、伯耆守護山名教之に従い、小鴨安芸守之基は主人に変わって防戦し、船岡山の戦いで討死した。
 大永四年(1524)五月、尼子経久が出雲より伯耆へ侵攻し、伯耆のすべての城が陥落し、小鴨氏の岩倉城も落城の浮目にあった。
二の丸下の石垣  永禄四年(1561)西国より起こった毛利氏が強くなり、羽衣石城の南条氏と共に毛利氏に加担して尼子氏に反攻。永禄九年(1566)尼子氏は毛利氏に降伏し、小鴨氏は南条氏と共に吉川元春の配下となった。
 元亀元年(1570)、山中鹿之助の配下に一時奪われたが、因幡の湯原氏の応援を得て奪還した。
 天正七年(1579)小鴨元満は南条元続と共に毛利氏から離れ、織田氏に帰属するようになった。毛利氏は吉川元長を長として、圧倒的な軍勢ともって、岩倉城に猛烈な攻撃をしかけて来た。天正十年(1582)五月のことである。忠勇十二勇士の誓願盟約による奮戦も空しく、遂に落城した。城主小鴨元清は南条氏を頼って羽衣石に逃れ、ここに岩倉城の歴史は幕を閉じた。

『岩倉城跡案内板』より

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資料
 

私見
本丸跡です。  岩倉城へは麓の集落の三叉路になっているあたりに案内板が設置されていますので迷うことはないと思います。そのあたりに車を置き、そこから徒歩になります。五分くらいで登城口につきますが、表示がある登城口には熊笹が生えてて、どうもあまり人が来ない様子を感じさせてくれます。すぐ脇には植林されている畑があり、歩きやすいのですが踏み込んではいけませんよね。
 さて、そこからはほとんどまっすぐに山を登っていきます。どれくらい登ったでしょうか、やたらと倒木が目立つのが不安になってきます。やがて土橋のようになっているあたりを過ぎた地点で巨大な岩がルートを封鎖しています。その下にもいくつか岩が転がっているのが見えますが、城と関係あるんでしょうか・・。
 藪や倒木を押し分けなが「山頂まで80メートル」という標識に救われる思いがしたんですが、実はやけに遠い80メートルです(^^;
 ようやく二の丸跡に出た時は一気に開放された安堵感と、眼下に広がる街道と集落、そして山々の姿に感動を覚えます。構造としては二段の削平地となっており、わずかですが石垣も確認できました。その先の本丸は二の丸よりも広大な面積の削平地ですが、ここは二の丸が一番おもしろいところだと思います。
 登城口が分かりにくかったり、途中だれたりしますが、上まで上がると満喫できること請け合いですよっ
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