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羽衣石城跡
登城日:(2000.05.05)
所在地: 東伯郡東郷町羽衣石
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
復興天守。近くで見るとちゃちい。  羽衣石城は東伯耆の国人、南条氏の居城として貞治五年(1366)から慶長五年(1600)まで約二三四年間使用された城であるが、城主の南条氏をはじめ羽衣石に関する記録は「羽衣石南條記」などの少数のものしか伝えられていない。また、これらの諸本の成立年代は南条氏が滅んだ後、百数十年たった江戸時代の中頃のものであり、どこまで事実を伝えているかは疑問であるが南条氏を知る一つの手がかりである。さて、これらの諸本によると南条氏の始祖は南条伯耆守貞宗とし、この貞宗は塩治高貞の二男で高貞が滅亡した時越前国南条郡に逃れた。貞宗は成長後、将軍足利尊氏、義詮の父子に仕えて功績をあげ義詮より伯耆守に任ぜられて貞治五年(1366)に羽衣石城を築いたという。
この南条氏の活動が盛んになるのは応仁の乱以後である。明徳の乱(1291)応仁の乱(1467〜1477)の為に伯耆国守護山名氏の権力が衰退するに乗じて南条氏は在地支配の拡大を目指して独立領主化をはかり、第八代南条宗勝の時には守護山名澄之の権力をうわまわる武力を保持するに至った。
大永四年(1524)隣国出雲の尼子経久は伯耆国へ本格的な侵攻を行い、西伯耆の尾高城、天満城、不動ヶ城、淀江城並びに東伯耆の八城城、堤城、岩倉城、河口城、打吹城の諸城を次々に攻略し同年、五月中頃までにはこれらの諸城は降伏してしまった。南条氏の羽衣石城も落城し、城主の南条宗勝は因幡へ逃亡した。これを「大永の五月崩れ」といい、この乱後、伯耆国は尼子氏の支配するところとなり、羽衣石城には尼子経久の子国久が入城した。
しかし尼子氏の伯耆支配も長く続かず、毛利氏の台頭とともに永録年間(1558〜1569)には支配権を失った。南条宗勝は永録五年(1562)に毛利氏の援助により羽衣石城を回復している。以後伯耆国は毛利氏の支配下に入り、南条氏はこのもとで東伯耆三郡を支配した。
天正七年(1579)織田氏の山陰進出が本格的になると南条元続は毛利氏を離反して織田氏についた。毛利氏は羽衣石城を攻撃し、元続は因幡に進出していた羽柴秀吉の援助などによりこれに対処したが天正十年(1582)羽柴秀吉の撤兵とともにら落城し、城主元続は京都に逃走した。
天正十三年(1585)秀吉と毛利氏との間で領土の確定が行われ、東伯耆八橋城を残して秀吉が支配するところとなり、再び南条氏に与えられた。しかし慶長五年(1600)に起こった関ヶ原の役で西軍に属した南条元忠は役後改易され羽衣石城は廃城となった。

「羽衣石城跡案内板」より

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資料  

私見
虎口跡です。 地図を見ていますとこの羽衣石城へのアクセスが全然のっていません。数キロ四方に一切道がないのです。「こりゃ登城は無理やな」と思ってましたが、復興天守があるのは知っていましたので適当に近づいてゆきました。すると案の定、『羽衣石城へ』という看板が出てきました。あとはそれに従って山を登っていきます。それにしてもこのゴールデンウィークは本当に山城が多かったなと今更ながら思ってしまいます。
さて、車でいける終点に着くと広めの駐車場がありました。そこに車をとめ、城跡へのルートを案内図で確認してみました。右ルートが400メートルで山頂に、左ルートが600メートルで山頂へいけるようです。当然右ルートですね。木で段をつくってある登城道はさほど急ではありませんので勢いよく駆け上っていけます。約半分ほどいったところでしょうか。右手に石垣が組んであります。かなり古いものであるのはわかりますがここの石垣は物見台か櫓の礎石のような組み方の形のままで残っています。まわりは鬱蒼と木々が群生していますのでまわりの見晴らしはまったくといえるほど悪いのですが、これがあったころには下への監視機能は充分に働いていたのでしょうね。
石垣をすぎてから段々登城道が険しくなってきました。突如巨大な石があったかと思ったら偶然そこでは神主さんがなにか読み上げて祈祷をささげておられました。どうやら羽衣伝説の羽衣石がここにあるようです。今日はたまたまその記念の日だったようですね。全国に羽衣伝説はありますよね。羽衣をかけた松とか。ここは羽衣を置いた石という形で残っているようです。
さらに上を目指します。頂上手前には巨大な石がいくつか立ててあるといった虎口跡があります。そして頂上にあがりますと、三階建ての復興天守が現れました。山の頂上部は全体に平坦になっており、復興天守のある本丸部のまわりをぐるりと帯曲輪が取り囲んでいます。下の大きな駐車場に比べてあまりにも貧弱な城跡でしたが、別に期待はさほどしてなかったのですぐに山を降りました。
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