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打吹城跡登城日:(20011.05.04) 所在地: 倉吉市仲ノ町 |
歴史 | ![]() ![]() 大永四年(1524)に、出雲の尼子経久が伯耆国に侵入、山名氏の諸城を攻略していった。この打吹城も周辺の城と同様に陥落した。世にいう「大永の五月崩れ」であった。その後毛利氏の援助によって城を奪還できたものの、それは同時に毛利氏の配下となることであった。 天正八年(1580)に吉川元春が打吹城に入ったが、秀吉による鳥取城攻めの後に和睦が成立すると打吹城は羽衣石城の支配下となった。 慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦ののちには中村一忠が伯耆国に入ると打吹城には入番が置かれるようになった。しかし同十四年には一忠の病死によって幕府の直轄領となる。さらに一国一城令によって伯耆国は米子城を残して他の城は破却されることとなったため、当城は廃城となった。 『日本城郭体系』新人物往来社刊参照
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資料 |
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私見 | ![]() ![]() 良い子は真似しないでね的なアプローチで山頂付近にまでやってくるとさすがに城跡としての雰囲気は感じ取ることができました。しかし、いきなり堀切や帯曲輪状の郭配置をみながら、頂上についてしまいました。すっかり苔むした石垣は久々の対面でしたが、相変わらず城の構造がよくわからないままに登ってしまいましたよ。 天守台、城址碑の脇には綺麗な案内板が設置されていましたが、城に関する内容にはなっていませんでした。そういえば麓にあるマップでもそんな傾向が見られたのですが、やはり倉吉市はあまり城跡としては押し出していないのでしょうか。花を楽しみながらゆっくり散策でき、また市民憩いの場所であるのは素晴らしいのですが、歴史に触れやすくなるよう、郭名とか縄張り図とかをあげてくれていたらとっても楽が、いや楽しめると思うのですけどねぇ(^^;。 そういえばこの城で不思議なのは、郭の名称ですよね。本丸から西へ下がったところにある二の丸は南条備前守元信がいたことから「備前丸」、さらに西へ降りた三の丸には中村一忠の家臣山田越中守が居住していたことから「越中丸」、また本丸から北へ20メートルほど降りたところには南条元忠の後見役、小鴨左衛門尉元清の居館があったために「小鴨丸」などと名称がつけられています。時代もバラバラですがその時期に拡張されたということなのでしょうか。完全に今回も消化不良な打吹城なのでした。しかし広い城域に郭が配置されていたのはよくわかりますので、お手軽に登れますしオススメですよ。
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