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米子城跡
登城日:(2007.04.08)
所在地: 米子市久米町
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
登城口にある枡形 旧小原家長屋門が置かれています。  米子城のおこりは十五世紀の後半であろうとされているが、それは国道9号線の左の飯山につくられた砦であった。国道右手の湊山を中心とする米子城は16世紀末頃に、出雲東部と伯耆西部を領した吉川広家によってまず四重の天守を中心に城地の築構が始まった。関ヶ原役後、吉川氏は周防岩国に転封され、米子には静岡から中村一忠が伯耆18万石の領主として入部した。中村一忠は四重天守の横に五重天守を建て、城地の縄張りを完成した。約90メートルの湊山山頂の二つの天守を中心に米子城は本丸、二の丸(城主邸宅、武器庫などのある一郭)内膳丸(出丸)、三の丸、采女丸(飯山)などに区画し、周囲と西は海面、他の三面は延約1100メートルの内堀で囲んだ。四重天守は高さ約17メートル、五重天守は約20メートルであった。三の丸には厩舎、作事小屋、米蔵、役人詰所などがあり、城の裏手海岸は深浦と称して船手小屋などをもつ曲輪になっていた。城郭内の総面積は30ヘクタール余、櫓の数20余、内堀を超えて外堀との間は郭内といわれ侍屋敷の並ぶ区域であった。城郭は幕末まで数回の修理で維持したが、明治12年頃天守は売却されて壊された。
 城主は中村一忠の後、加藤貞泰、池田由之と変わり、寛永9年(1632)池田光仲が因幡・伯耆の領主に封ぜられると家老荒尾成利が米子城を預かり、以後荒尾氏の自分手政治が明治維新まで十一代続いた。

『米子城跡案内板』より

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資料  

私見
内膳丸の様子です。  当初この米子城を訪れる予定ではありませんでしたが、実際この目にするまでここまで立派な城だとは思ってもみませんでした。湊山に本丸、西の丸山に二の丸、そして東の飯山には三の丸と大規模な縄張りに加え、海水を引き込んだ内堀はまさに天険の要塞と言えます。ここで戦が行われなかったのは残念なくらいです。約10分ほど石段を登っていくと、大きな城門跡を潜り、天守跡にでます。360度はるか遠くの島まで見渡すことのできる眺望は絶景です。まわりにこの城より高いものがなにもないのですからここに天守があったころは大層見事な眺めだったことでしょうね。せっかく明治維新後まで続いたのですから現在にもそのまま残っておいてほしかったなと本当に残念です。
 古物商にわずか37円で叩き売られて解体されてしまうなんて・・・しかも、その木材は風呂屋に薪として使われたんですからなんて間抜けすぎるんでしょうか。吉川広家が聞いたらどういうでしょうか。

岩村城を意識して撮ってみました。 桜と石垣はよくあいますね。  8年振りの再訪となりました。季節はちょうど桜のシーズンです。自然と石垣と桜との構図を探してしまいますね。当然ですが前回気づかなかったことが改めて新しい発見となったりするのがうれしいです。
 ところでこの米子城、麓に掲げられている看板があるのですがそこに年代別の登頂予測時間が書かれています。なんとか実年齢よりも若い世代であることをアピール(って誰に?w)しようと駆け上がってしまい、あとで痛い目にあうという罠が隠されています。くれぐれもご注意くださいませ。
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