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尾高城跡
登城日:(1999.03.21)
所在地:米子市
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
城跡公園となっている尾高城跡 屋敷跡。土塁と空堀跡なのか区切りがはっきりしています。  米子勤労総合福祉センター(現在米子ハイツ)は、尾高城跡を中心とした約9万平方メートルの敷地内に建設されています。この尾高城は室町、戦国時代には行松氏累代の居城でしたが、1524年(大永4年)尼子方武将吉田光輪が変わって城主となり、その後伯耆因幡制覇をめざす毛利の勇将杉原播磨守盛重が備後から転城し伯耆守護の要害とされました。尼子方の武将で「我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った山中鹿之介幸盛は、幾度の戦後、この城の虜因となり、数十度の厠通いで城兵の油断を誘い、汲取口から脱出したとの史実があります。関ヶ原の戦いの後、伯耆十八万石の領主となって入府した中村一忠は、現米子市城山の久米城が完成するまで尾高に在城しました。また、土塁と堀に囲まれ、方形館跡と、北から二の丸、本丸、中の丸、天神丸と続くこの城跡は、中世の城の威容が忍ばれます。現在、城跡は米子市の文化財に指定されています。米子ハイツは、背後に大山を控え、前面には日本海が迫った風光明媚な尾高の地に、城跡の地形を十分に生かして梅園、桜の園、あじさい園、武家屋敷跡基礎復元、日本庭園、自由広場等を整備し四季とりどりの草花木を植え、自然に親しむ憩いの場として、また体育館、テニスコート、ゲートボール場などの体育施設も設け、勤労者の総合的な福祉の向上に寄与することを目的として昭和51年6月建設開業されたものです。

 ここは、中世の東西交通路をおさえる西伯耆の軍事上の中心地であった。城郭は、鎌倉時代から築かれたようであり、室町時代山名氏支配下では城主は行松氏が、尼子氏が進出すると城主は吉田氏が、16世紀後半になって毛利氏支配下時代には杉原盛重が城主であった。
 江戸時代初期、米子城築城によってこの城は廃城となった。城跡は、北から二の丸、本丸、中の丸、天神丸、後方の館跡など八つの郭があって掘りや土塁で守られ、平常の生活を営む館と城とがつながっている中世の城郭遺跡である。
 尼子回復戦のおり、尼子の勇将山中鹿之介が捕らわれ、この城にいたとき、腰痛といつわって汲取り口から脱出したという物語は有名である。

 行松正盛の居城であったが大永四年(1524)尼子経久に一旦は攻め落とされるが、その後毛利氏の援助で奪回する。その後杉原盛重が城をまかされたが、天正十一年(1583)、後を継いだ元盛は、弟景盛との抗争で殺害され、景盛も直後に自刃させられてしまう。
 その後は吉川元春が入り、西伯耆地方の要衝を守るようになった。

『尾高城跡案内板』より

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資料  

私見
くっきり残る櫓台跡  遠目から見るといかにも城跡っぽい山が見えます。近づいてみると非常に奇麗に整理された城跡公園となっていました。駐車場に車を止めたあと、ゲートボール場となっている館跡の横を通り、家臣屋敷跡、そして二の丸を歩いていきます。土塁跡がよく残っているのがわかります。その先の本丸は茂みがひどくてとても足を踏み入れることができませんでしたが、左右には厳しい断崖絶壁が天然の要害と化していました。
 そのあと二の丸跡へ戻り、本丸と反対側を向くと隅櫓のあとが見られました。これだけ奇麗に整備されているのになぜ本丸だけはほっとかれているのか気になりましたが、尾高城を後にしました。
 すると米子道方面に天守閣が見えていました。お菓子の工場となっている寿城です。ついでとばかりにすっかり試食で腹を満たしてもらいました。(^_^; しっかし、饅頭ばっかり試食してもあんまりありがたくないですね。私はやはりデパートやスーパーがいいです。
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