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新宮城跡登城日:(2011.05.01) 所在地: 新宮市新宮 |
歴史 | ![]() ![]() ![]() 元和五年(1619)、浅野氏にかわり徳川家康の十男、頼宣が紀州に入国し、同時に頼宣の付家老として、新宮に水野重仲が入った。重仲は、忠吉の築城工事を継続し、寛永十年(1633)、城は完成をみる。以後、明治の廃藩置県により廃城となるまで、紀州藩新宮領支配の中枢として機能した。 ![]() ![]() 熊野川岸の「水ノ手」には、船着場と一万俵余の炭が収納できる大規模な炭納屋が設けられ、熊野川流域の備長炭を集積し、江戸などへ出荷する拠点となっていた。 また、隣接の現在保育園となっている場所は「二ノ丸」といい、領国支配の行政機関があった。登城のための「大手道は」、二ノ丸の北側(市民会館横)に入口があるが、今は建ち並ぶ民家でふさがれ入ることはできない。 ![]() ![]() ![]() この城跡は川と海の自然の美と地形を巧みに取り入れた平山城として、わが国の数ある城郭の中で他にその比がないといわれたものであるが、今はその重厚な石垣に名残りをとどめるのみとなっており悠久の川の流れとともに深い熊野の歴史を語りかけている。 城跡となった丹鶴山付近は平安時代から新宮における要衝の地点であった。 熊野三山を支配していた九代熊野別当が別邸をつくりその後丹鶴姫によって東端付近に東仙寺が開山され、以後源氏再興の口火を切った。 源新宮十郎行家が山城を築いたともいわれており、慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦後、それまで熊野地方に君臨していた堀内氏に替わり浅野忠吉が新宮に入り、翌六年より築城に着手し紀州藩の熊野統治の拠点となった。 元和元年(1615)幕府の一国一城令により廃城となるがその後着工を許され元和五年(1619)には九間四方の大天守、三間四間の小天守をもつ天守丸、二の丸、出丸などが配されたが同年、浅野氏は芸州に国替えとなり徳川頼宣の付家老として水野重仲が三万五千石で入城、前代の工事から引き続き寛永十年(1633)城は完成された。 明治の廃藩置県で廃城となり、城内の建物はすべて解体され、浅野一代、水野十代にわたり約270年も続いた城の歴史は消えたが、ここに新しく熊野の文化を継承し市民の憩いの場として都市公園法にもとづく整備を行ったものである。 『新宮城跡案内板』より
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資料 |
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私見 | ![]() ![]() ![]() ![]() ひとしきり石垣を楽しんだあとは、やはり眺望ですよね。いい天気だったこの日は熊野川が美しい表情を見せてくれていました。それと眼下に広がる水の手の郭群にも惹かれます。素晴らしい城跡です。前回訪れた時にも感じましたが、米子城と似ているなと思います。遠く離れた本城と、それとは別に総石垣の堅城の姿。そして現在に残る遺構。いずれも石垣好きにはたまりませんね。
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