城めぐドットコム HOMEへ Check   Twitterでつぶやく  

新府城

新府城跡


登城日:(2009.04.20)
所在地: 韮崎市中田町中條
 
【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
新府城の想定復元図 新府城の本丸跡  新府城は、天正十年三月織田軍の侵攻を前に、武田勝頼自ら火を放って東方郡内領岩殿城を指して落ちていった武田家滅亡の歴史を伝える悲劇の城跡である。
 本城は南北600メートル、東西550メートル、外堀の水準と本丸の標高差80メートル。形式は平山城で、近世城郭のような石垣は用いず、高さ約2.5メートルの土塁を巡らしている。
 最高所は本丸で、東西90メートル、南北120メートル、本丸の西に蔀の構を隔てて二の丸があり馬出しに続く。本丸の東に稲荷曲輪、二の丸を北方に下れば横矢掛りの防塁があり、その外側に堀を廻らしている。堀は北西から北、北東へと巡り、北方の高地からの敵襲に備えて十字砲火を浴びせるための堅固な二ヶ所の出構が築かれている。三の丸の南方には大手が開け望楼があり、三日月形の堀とその外側に馬出しの土塁が設けてある。本丸と東西三の丸、三の丸と大手等の間には、帯曲輪、腰曲輪がある。搦手にも望楼がある。蔀の構、出構は新府城の特色で防御のために工夫されたもので、特に出構は鉄砲のような新鋭兵器をもって敵の攻撃に対抗するために工夫された構えといわれる。
新府城の東出構
◆新府城跡出構
 出構は城の外郭の一部を長方形に濠の中へ突出させた鉄砲陣地で、防御上最も弱いと見られる北正面に向けて、東西に約百メートルへだてて平行に二本が築かれている。

『新府城跡案内板』より

【戻る】

資料
【地図を表示する】
 

私見
乾門の手前にある土橋 搦め手側に整備された枡形虎口  新府城は、天正九年(1581)に武田勝頼によって築かれました。城が完成する前に躑躅ヶ崎館(武田氏館)から移ってきた勝頼でしたが、翌年三月に織田の軍勢を前にして自ら城に火を放って逃げ出してしまうという実にもったいない名城です(^^;。今だったら血税をなんて使い方するのだと・・いやそれはいいか。新府城はその規模といい、縄張りといい、武田の築城技術の集大成と言えるのでしょうから実戦で活躍してもらいたかったです。
 さて、新府城の駐車場に車をとめますが、このあたりは東堀だったようですね。道路を渡り東出構えにとりつきます。堀の中に突出したこの仕掛けは東西に2つあり、ここに出張って外部の敵を迎え撃つのですね。面白いです。今は西出構えが発掘中のようでした。
新府城の大きなすり鉢状の井戸跡 土塁に囲まれた新府城二の丸  堀を常に右に見ながらまっすぐに西進します。大きな井戸が藪の中にありますが写真じゃうまく撮れません(^^;。搦め手の方に向かいますがそばで重機が今も堀の整備をされています。これを見ながらだと搦め手への土橋や郭をぐるりとめぐらせた土塁、そして枡形が「この重機で整備されたのかな・・」と見えてしまいます(^^;。復元整備前はどんな状態だったのでしょうねぇ。乾門や枡形の西側は七里岩と呼ばれる急崖で、覗きこむと足がすくみます。

新府城本丸  いよいよ本丸へと向かいます。西側から回り込むとさきほどよりもさらに大きな井戸跡がありました。すり鉢状の実に大きなものです。雨水を貯めこむタイプのものなんでしょうかね。で、その先からいよいよ土塁好きにはたまらないゾーンに突入ですね。二の丸は方形の郭で、綺麗に土塁が取り囲んでいます。そしてその南には馬出しがあるのですが、私のイメージ不足で馬出しに思えませんでした(-_-;。
大手にある三日月堀 大手枡形  二の丸から東へ向くと土塁で囲まれた小さな区画が南北に2つあります。蔀の構といい、これもまた新府城で初めて見たものです。なかなか堅牢なつくりですね。
 本丸はだだっ広い平場となっており、藤武神社が建っています。ここも周囲を土塁に囲まれていますね。本丸から南へは少しずつ段差がついて下って行っています。ところどころに郭跡が見られ、また高い土塁も残っています。そして最後に楽しみにしていた大手の三日月馬出しと枡形、三日月堀を確認することができました。どれもうまく写真を撮ることが難しいのですが三日月堀側から上がっていくようにするとそれぞれの形状がよく分かるようになりますね。
 結構駆け足で回りましたが、その規模の大きさには圧倒されっぱなしでした。見ごたえ十分ないいお城ですね。
【戻る】