![]() |
![]() |
Check
![]() |
![]() |
武田氏館跡(躑躅ヶ崎館)登城日:(2009.02.20) 所在地: 甲府市古府中町、武田神社 |
歴史 | ![]() ![]() ◆惣堀北側虎口 ![]() 発掘調査以前は、鍛冶小路側から土橋をわたると通路は途絶えていましたが、調査を進めると、石を配した階段が発見されました。石階段は全体を粘土混じりの礫石で覆われた状態で発見されているので、自然堆積によって埋まったものではなく、曲輪の機能が停止した段階で人為的に封じ込められたと考えられます。 ![]() ![]() ◆大手石塁と三日月堀 ![]() また、石塁の直下からは新たに三日月堀が発見されました。三日月堀は、丸馬出と呼ばれる館の出入口を守る施設の一部であり、内側に土塁を伴っている場合が多いようです。丸馬出は、武田氏領国内で数多く確認されていることから、武田氏が積極的に用いた施設と考えられています。山梨県では新府城跡(韮崎市)に続き2例目となりました。 このように、武田氏時代の遺構とその後の勢力によって築かれた遺構が重なり合って発見されています。 ◆発掘された武田氏館跡大手 大手東側には惣堀と土塁で囲まれた曲輪の存在が確認されています。曲輪内の広場のうち上段部では、惣堀に架かる北側土橋の曲輪側から石階段が発見され、その下段に付設されている南側土橋では門礎石が確認されています。 土橋から館跡へ向かって進むと、武田氏館の正面玄関である大手土橋の前に武田氏滅亡後に築かれた石塁が存在しています。石塁直下には三日月堀など武田氏時代の生活面が確認されているため、現在大手日東側でみられる施設は、武田氏滅亡後に甲斐を支配した新たな領主によって大きく造り直されたと考えられます。 武田氏館跡は戦国大名武田氏の本拠地であるとともに、その後の勢力による甲斐国統治の拠点としての側面もあります。その意味で戦国の戦乱期から天下統一へ向かう歴史全体の動きをしる上で貴重な史跡です。 『武田氏館跡案内板』より
|
資料 |
【地図を表示する】
|
私見 | ![]() ![]() ![]() 北側の曲輪跡は花が植えられた公園となっていたり、畑地や空き地状態だったりして整備を待っているかの印象を受けます。また堀の周囲は木が茂っており堀底をうかがうことができなくなっていますが、見やすくなるんでしょうか。 次に北側の橋を渡って西曲輪へと入ってきます。ここは勝頼が拡張した曲輪ということです。堀底もよく見渡せるようになり、ところどころに石垣跡が見られます。中曲輪のほうへ視線を向けると曲輪上に石垣が見えているのがわかりますが、ここは武田神社の配置図にもあった天守台の石垣になります。時代としては武田氏以降のものだとされています。詳しく見に行きたいところですが、「立ち入り禁止」エリアだということです。実際には中曲輪の南側土塁前にロープが張られて、それ以上は踏み込まないように意志表示がされていますが、天守台へ行こうと思えば別方面から立ち入ることは可能でしょう。が、ここはお城ファンとして良識ある行動をとられることを強くお願いいたします。心ない訪問者があとを絶たないので地権者が城跡自体を立ち入り禁止とした例もあります。全国的にも有名なこの武田氏館(躑躅ヶ崎館)を今後も楽しむことができるよう、許可された範囲内を散策するようにしましょう。(現地の案内表記があいまいだと思いましたので、あえて書かせていただきました。) ![]() ![]() 武田氏館の周辺には有名な武田の武将達の屋敷跡を示す標識が設置されています。高坂弾正、馬場美濃、内藤修理などの武将達の標識を探しまわるのも結構楽しいものですよ。また顔認識機能を持つカメラで撮影すると顔だと認識してくれる標識もあって、違った遊び方もできます(^^
|