
天正三年(1575)に越前一向一揆を平定した織田信長は、越前の抑えとして柴田勝家を置いた。勝家は
北ノ庄に築城すると、その補佐役として付けられていた府中三人衆もそれぞれ前田利家が
府中城に、不破光治が
竜門寺城に、そして佐々成政は小丸城を築城して居城とした。
小丸城の石垣には野々宮廃寺の礎石と見られるものが転用されていることが知られているが本丸周辺が工事により破壊されたこともあり詳しくは不明である。また成政が同七年に越中砥山城に転封となったため、わずか4年での廃城となった。そのことから小丸城は未完成な状態であった可能性も考えられている。
現在残る城の遺構から考えられる城の規模は、味真野の扇状台地末端に本丸、二の丸、三の丸と環郭式の構造を持つ。高さ約7メートル、50メートル四方の本丸を中心に、基底幅20メートルほどの土塁、幅20メートルの堀などが見られる。また北西の乾櫓からは成政が一揆を成敗した際の様子を刻んだと言われる文字瓦も出土している。
NHK大河ドラマ『利家とまつ』越前府中・利家紀行
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初代加賀藩主前田利家(犬千代・又左衛門)は、織田信長の越前一向一揆平定後の天正三年(1575)秋、佐々成政、不破光治と共に各々越前府中領主十万石の土地を均分し与えられた。この三名を府中三人衆という。そのひとり佐々成政がこの地に城を築き小丸城主となった。天正九年(1581)に成政が越中の移封されるまでの約六年間のうちに築城され、成政が去った後、城は廃絶された。約50メートル四方の一部石垣を持つ丘は本丸跡で、周囲の東西約300メートル、南北約450メートルの平坦地には二の丸跡や隅櫓、土塁、堀などの跡がある。付近に小丸、北小丸、古城、的場、御館、鉄砲町などの字名が残ることから、成政在城の頃には広範囲に城郭施設が整い栄えたと考えられている。