
天正3(1575)年、織田信長は北陸地方の一向一揆を平定するため大軍を派遣し、当時丸岡の東方4kmの山中にあった豊原寺を攻略し寺坊を悉く焼き払った。信長はこの恩賞として柴田勝家に越前之国を与え、守護職とし、
北ノ庄に築城を命じた。勝家は甥の勝豊を豊原に派遣し豊原城を構えたが、翌天正4(1576)年豊原から丸岡に移り城を築いた。これが現在の丸岡城である。
勝豊以後、安井家清、青山修理亮、同忠元、今村盛次、本多成重以下4代、有馬清純以下8代の居城を経て明治維新となった。大正中期より昭和の初期にわたり濠は埋められ、現在は本丸と天守閣と僅かに石垣を残し城域は公園となっている。昔の城郭は五角形の広い濠を有し外郭に侍屋敷を配置し、さらに河川を利用し外濠を設け寺院民家を包容し城下町を形成していた。
丸岡城は現存する天守閣の中で最も古い建築で、外観は上層望楼を形成して通じ柱がなく、一層は二階三階を支える支台をなし、屋根は二重で内部は三階となっている。又、屋根が全部石瓦で葺かれているのが全国にも稀な特徴である。

このような古調に富んだ望楼式天守閣は後の時代の
松本城、
彦根城、
姫路城など層塔式天守閣と比較すると、いかに城郭建築の初期のものであるかがうかがえる。昭和9年国宝に指定されたが、昭和23年福井大地震により倒壊した。昭和25年重要文化財の指定を受け、昭和30年に修復再建された。
『丸岡城パンフ』より