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松本城跡
登城日:(2002.09.01)
所在地: 松本市丸の内
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
松本城とはるか後ろに見える山並み  本丸と二の丸からなるこの地域は、松本城の中枢部である。本丸には、面積約ニ七三○メートルの本丸御殿(政庁)と五重の天守閣がそびえていた。
 二の丸には、東から面積約ニ三三○平方メートルの二の丸御殿(藩庁)、面積約七○○平方メートルの古山地御殿(城主私邸)、八千俵蔵(城米蔵・米ニ○○○石貯蔵)、焔硝蔵が並び、また、なお、現在二の丸御殿跡は平面復元されている。
松本城表門である高麗門

松本城跡案内板より

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資料  

私見
松本城天守閣  松本の地は古くから「深志」と呼ばれていました。
 室町時代の初め頃、足利尊氏に従っていた小笠原貞宗が信濃守護となり、今の松本城よりもやや南方に居館を構え、深志には支城を置いておりました。
 戦国時代には、天文十七年(1548)に武田信玄が小笠原長時を打ち破り、深志城の拡張を始めました。それがのちの松本城の基礎となったようです。
 天正十年(1582)に織田信長が木曾義昌の要請により武田信玄を滅ぼし、その結果として木曾義昌が深志城主となりました。しかしその後信長が本能寺にて横死を遂げると、信濃はたちまちのうちに混乱してしまいました。
 そんな信濃を急襲したのは越後の上杉謙信でした。深志城の木曾義昌を城から追い落とすと、小笠原長時の弟である、貞種を城主にすえました。しかし、長時の嫡男小笠原貞慶が徳川家康の後押しにより深志城に攻め寄せました。貞種はたまらず越後に逃げ落ち、貞慶は城名を改め、松本城としました。
ちょっとくどいですが少しずらして松本城天守閣  天正十八年豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅ぼすと徳川氏は関東へ移封となり、同時に小笠原貞慶の子秀政も下総古川へ転封となりました。そこに入封してきたのが豊臣方となった旧徳川家康家臣、石川数正です。現在の松本城を完成させたのは数正とその子康長でした。
 やがて康長が改易となると、小笠原秀政が城主に返り咲きましたが、その後は長続きせず、戸田氏、松平氏、堀田氏、水野氏、再び戸田氏とめまぐるしく交代をつづけ、やがて明治維新を迎えました。
 松本城は別名、烏城といわれ、その姿が真っ黒であることからつけられましたが、いみじくも同じ別名を持つ岡山城よりははるかに美しい天守です。

 国宝松本城は今回で二度目の訪城でした。前回は天候に恵まれず雨の中だったのでいい写真もとれず非常に悔しい思いをずっと抱いてました。今回はリベンジとばかり残暑も厳しいこの時期を選んでやってきました。が、今日は例年行われているパレードと本丸広場にてオーケストラの演奏があるということで人出が多く、写真のフレームになるべく人をいれずに撮影することに苦労させられます。今回も別の意味で大変攻めにくい城だったということになりますね。
 天守内の展示物はなぜか鉄砲で、この松本には鉄砲との縁があるのかよくわかりませんが、気にせず(笑)最上階まであがってみます。気持ちのいい風が通り過ぎ、また眼下に広がる美しい本丸広場と反対側の高い山々が心現れる想いにさせてくれます。今回は無事満足のいく写真も撮ることができいい城攻めでした。
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