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織田信長居館跡


登城日:(2006.04.22)
所在地: 岐阜市千畳敷
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
現存する信長居館の石垣 居館の冠木門と新緑がいい雰囲気です。  永禄十年(1567)織田信長は、稲葉山城主・斉藤龍興を追放し、「井口(いのくち)」から「岐阜」とその名を改め、金華山山頂に岐阜城を修築して天下統一への拠点とした。金華山の西麓にあたるこの辺りには人工的な二〜三段のテラス状地形があり、最上段を千畳敷、中段以下の大部分を千畳敷下という。ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスがその著書の中で壮麗なものとして紹介した信長の居館の跡といわれている。
 昭和五十九年から行われた発掘調査で、両側に板状の巨石を立て並べ、千畳敷下から千畳敷へと折れ曲がりながら上がっていく通路をはじめとして、その途中や周囲に配置された土塁状遺構・石垣・階段・水路などが発見された。岐阜城は、信長が近江の安土へ移った後、慶長五年(1600)関ヶ原戦の前哨戦で落城するまで続くが、これらの遺構の多くは、その出土品などから信長時代にその基本的な造作が完成したと考えられる。巨石を用いる例は、江戸時代の大阪城大手門や搦手門などにうかがえるが、この時期には稀である。
 発掘調査では、これらの遺構の下にさらに古い時代の遺構群が存在することが確認されている。石垣・石積施設・階段状遺構などで、これを破壊、または埋めて作られた通路など上層遺構が信長によるものとすれば、稲葉山城に係る斉藤氏時代の可能性が高い。まだ数枚の聖地した土層が上下に重複していることが確認されているが、この中にはいくつかの焼土面が含まれており、施設の焼亡を挟んで複数の城主による造成が行われたことを示唆している。
 壮麗豪華な建築と伝えられる信長の居館そのものの建築遺構はまだ確認されていないが、中世から近世への過渡期の様相を探る上で極めて重要な遺跡である。

テラス状の広がりを見せる居館跡 織田信長居館跡全貌 ◆入角と出角・下層石積
 左手の石垣はクランク状に折れ曲がり、入角(いりずみ)と出角(ですみ)をもつ。このように石垣を意識的に屈曲させることは後に盛んになるが、本例はその初源的なものと思われる。現在は一段が残存しているに過ぎないが、出角の石が山側へ傾いて置かれていて、本来はこの上に勾配をもったかなり高い石垣があったことを想像させる。最下段の比較的大きな石が発掘調査で出土した石垣遺構で、他の小さな石は土砂の崩壊を防ぐために今回積んだものである。
 周囲より一段低い位置にある右手の石垣は、これより時代の古い下層の石垣で、左手の石垣の築造時に埋められている。小さな石を使用して積み上げられていて対照的である。北西側の下層遺構群と同時期の可能性があり、永禄十年(1567)織田信長入城以前のものと思われる。高さ約2メートルあるが、そのうち上1メートルを展示してある。

『織田信長居館跡案内板』より

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資料
 

私見
入角と出角部分 発掘された信長以前の石垣  久々に岐阜城にやってきました。もともとそのつもりはなかったのですがなぜか足が向いてました(^^;。実に7年ぶりの岐阜城。はじめてロープウェイで行ってみることにしたところ発着場の裏手に「信長居館跡」という案内がでています。そういえば山麓にそんなのがあったんだった、と思い出し改めて居館跡を散策しました。
 千畳敷と呼ばれる居館跡には見事に復元された石垣が当時の状況を分かりやすく物語っていますね。実は一番下段の巨石だけが現存だということですがここまでよく復元されたものです。また、信長以前の石垣も発掘されており、実に興味深く見せてもらいました。
 岐阜城には自分の足で登城したいものですが、しかしセットでこの信長居館跡もぜひ訪れてみてください。私には感慨深いものがありました。
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