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船上城

船上城跡


登城日:(1999.01.16→2010.11.06)
所在地: 明石市神明町
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
船上城本丸跡を西から臨む  船上城は、室町時代には播磨の豪族、赤松氏が砦を築き、その後三木城主別所長治の叔父別所吉親や蜂須賀小六正勝らが居城しました。
天正十三年(1585)八月、天下を取った秀吉は大名の国替えを行い、高山右近には高槻四万石から、明石六万石への国替えを命じました。明石に入封した右近はさっそく城造りをはじめました。それがこの船上城です。その規模は「城構多門塀を掛け小き殿主も有り之候」とあるように、小ぶりですが総構えの城郭だったようです。また殿主(天守)は、後の天守閣のようなものではなく、二層の建物の上に望楼を取り付けた三層のものだったのではないかと推測されています。
天正十五年(1587)六月、九州攻めの最中に秀吉は、キリシタン禁止令を出しました。そして同行していた右近にも「信仰を捨てるか、地位を捨てるか」を迫りました。信仰を捨て切れなかった右近は追放され、その後明石は秀吉の直轄領となります。
慶長五年(1600)十月、播磨の太守になった池田輝政は船上城に家老の池田出羽守由之を入れました。
元和三年(1617)には、小笠原忠政が明石十万石の領主となり、明石城を築城しました。同五年、船上城は火災により廃城となりました。
船上城の遺構とされる織田家長屋門  織田家長屋門(明石指定文化財、昭和45年)
 この附近は、明石藩築城の当時から江歴代家老、重臣が住んでいた屋敷跡である。
 門は、船上城から移築されたものという。
 建築は、江戸時代初期のもの、門の止め金は、室町後期の様式を伝えている。

『現地案内板』より

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資料 【地図を表示する】
 

私見
船上城本丸跡 本丸跡の周囲が堀跡の見える  船上城は私が城めぐりを始めだした最初の頃に来た以来ですので、随分久しぶりの訪城となりました。以前は近くに路駐した記憶がありますが、今回は歩いてやってきました。一見すると田んぼの中にこんもりと小高く残された丘の上に本丸跡として残されているだけのように見えます。しかしよく見ればその周囲の田んぼがかつての堀跡のように見えるのは気のせいなのでしょうか。
 本丸跡には南側の住宅側からではなく、北西から田圃道を使って近づくのが正解です。現在本丸跡には小さな社が祀られ、比較的新しい案内板がそばに設置してありました。築城の名手とされる高山右近が完成させた船上城とその城下町は、今や想像することさえできないくらいとなりましたが、明石城に来られたらセットでこの船上城にも訪れてみていただきたいと思います。
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