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平田村付城跡 登城日:(2008.03.16) 所在地: 三木市大村 |
歴史 |
◆谷大膳公の碑
谷大膳亮衛好公、幼名小太郎、享禄二年(1529)宇多源氏佐々木氏の末裔、福田六兵衛尉正之の次男として美濃国くさがんむり莚田郡伊地良村に生る。幼にして近江国甲賀郡長野住豪族伯父谷衛之に養われ谷姓を冐す。養父衛之、浅井亮政に属し、佐和山の合戦に死す。公、長野の地を継承せしも、後伊地良村に住し斎藤道三、織田信長に仕う。天正六年九月、羽柴秀吉公に従い三木城攻略に参じ平田大村の砦を守る攻防一年有余、別所氏密使を毛利氏に送り、ひそかに糧食の補給を計る。天正七年九月九日夜半、別所毛利の精鋭、月明を利して大膳公の砦を急襲、補給の道を開かんとして激戦数刻に及ぶ。大膳公、身長八尺無双の大力なり。部下を督励し自ら大長刀をふるって奮戦せしも衆寡敵せず身に五十余創をうけ壮烈なる戦死を遂ぐ。時に享年五十。九月十日黎明なりき。秀吉公その死を悼み丁重に葬り杉を以って塚木とし給う。法号亮衛院殿月賛玄光大居士、共に戦死せし兄福田正舜(玄々院殿)、弟土田小伝次、甥福田彦八良(勇功院殿)、同孫三郎(猷駿院殿)を併せ葬う。一族の位牌すべて大村金剛寺にあり、公の嫡男衛友、この戦いに仇敵室小兵衛の首級をあげ父の恨を晴らせり。秀吉公、父子の功を嘉賞し丹波山家に六千石を給う。徳川氏の治下に入るや加封され一万六千石の大名となり明治に至るまで歴代城主たり。明治以後華族令により子爵に列せらる。現存する墓碑墓域は、公二百回忌を期して九代の孫衛秀の部下福田正親に命じて造営せしむる所、以ってその忠節を偲び、遺徳を後昆に顕彰せんとの真情に出づ。公死して茲に百九十年、公等一族の事蹟を更に闡明にすべく改めて金石に刻して墓域を飾る。英魂子孫の弥栄をみそなはしめ給へ。 ◆谷大膳の墓 谷大膳は豪将でならした人で、天正四年の石山の戦いで大手柄を立てたため、秀吉方の武将として三木城攻めでは重要な平田の陣営をまかされていた。 天正七年九月九日夜半に兵糧を三木城へ運び込もうとした別所・毛利の軍勢の夜襲を受け、なぎなたをふるって奮闘したが、力及ばず戦死を遂げたのである。 『現地案内板』より
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資料 |
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私見 |
谷大膳の墓があるこのあたりは三木合戦の中でも激しい戦闘が行われました。天正七年(1579)九月の平田砦の合戦、そして大村坂の合戦が毛利、別所方と羽柴方とがぶつかり合いました。谷大膳は平田の砦を死守せんと戦い、そして命尽きたとあるのですが、この平田村付城は吉田勝左ヱ門が居たとされており、谷は大村山上付城に居たってことになってたんじゃないのかなぁ。(^^; ま、あんまり気にしないことにしますが、このあたりは他にも別所方の大村城もあったようで、ほんとに混沌としていたのですね。 前置きはそこまでとして、とりあえずお墓に一通りご挨拶を済ませるとすかさず山へと踏み込んでいきました。そう、ここを訪れた目的はお墓参りではなくその先にある付城遺構が見たかったからです(^-^)。 付城の遺構は山中中腹に2度ほどの折れを持つ土塁がうねうねとその存在感を抜群に主張しておりました。東側から西側へ斜面をあがっていくように土塁は作られており、ちょうど地図で見ると小野市側から大村坂を通過する敵兵に備えていたようです。残念ながら1箇所大きく削られてしまっていますが、でもそのおかげで土塁の断面を確認することもできます。 そうそう、大膳の墓の脇にある石燈籠には山家藩の名が刻まれていましたよ。これは大膳の子衛友が山家藩藩祖であることからのつながりなんですね。なんとなく同じく市内にある竹中半兵衛のお墓と比べてしまうのですが、立派なものだと感心します。
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