HOMEへ Check   Twitterでつぶやく  

貝野城跡
登城日:(2005.03.13)
所在地: 多可郡中町東山字城山
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
北側郭の真下にある石垣 雪が積もりはじめた郭にて  貝野城の詳細は不明である。妙見山を中心にして別峰に広がる段ノ城同様に有田氏(在田氏)が居城していいたようである。有田氏は赤松範資の子、朝範が「有田肥前守」を名乗ったことからはじまったとされている。
 別の説として山名系山内氏が居城していたというものもある。山内氏は文明年間に山名政豊から松井荘に知行を与えられており、後に毛利からもこれを安堵する書状を受け取っている。また山名氏による生野銀山の開発がはじまった頃、多可郡内の荒田でも吹銀を行ったようである。こうした自らの権益を守るため、連携したものと考えられている。また、貝野城が北播磨には珍しい畝状竪堀を有していることからも、山名系の太田垣氏が代官として防禦施設を施した、とされているのである。
 天正三年(1575)、豊地城主別所重棟の攻撃を受けあえなく落城してしまった。

『日本城郭体系12』新人物往来社刊参照、他

【戻る】

資料
 

私見
畝状竪堀ですが、わかりにくいですね。  貝野城は、段ノ城から見て妙見山から分岐した別峰(標高353メートル、比高230メートル)となっています。那珂ふれあい館の駐車場に車を止め、建物の左奥に見える城山が貝野城です。車でも通れる道を700メートルほど進むと妙見山東登山口に出ます。そこから3合目まで登れば左右に分かれる分岐点となり、右が妙見山、そして左が貝野城です。地元に人に聞くと今年中にハイキング道が整備されるということなので来シーズン来ればもっと楽に登ってこれるんじゃないでしょうか。
 貝野城の縄張りは地形にそって東側中央が凹んだ逆コの字型をしており、少し西側にもでっぱりがあるような郭が並んでいます。基本的に南北の大きな郭を中心に段差がつけられ、まわりを小さな郭が形成されています。北側の先端部の郭からそのまま中央を通り、南側郭の先端部まで腰曲輪のような通路が作られているのが特徴的です。霞ヶ城も似たような感じだった気がします。水尾城もそうみたいなのですが、そっちはわけがわかりませんでした。
 郭部に到達するには北側畝状竪堀の端から登っていくことになりますが、私は無理に直登をしましたが、これが苦難の始まりでした。 吹雪いている中、全身白くなっていきます。。  結構急な傾斜を登っていくと山頂部に近づくにつれて膝丈ほどのトゲをもった潅木が牙をむいています。ズボンや服につきささって行く手をさえぎります。それでも慎重にすこしずつ登っていくと、今度は突然の雪が降ってきました。かなりの吹雪です。これにはさすがに参りました。トゲのためなかなか思うように歩けない前方、一方後方はすでに雪がつもりはじめ足場がよくわからなくなっている状態。仕方なく回りの枝を折ってはトゲを押さえ、踏みつけつつ少しずつ前進します。寒いのですが変な汗がでてくる中をどれくらい経ったでしょう、ようやくこの決死のルートを選択したご褒美が見えてきました。石垣です。北側郭の下に見事に石垣が残っているのです。ほかにも石積み遺構はありますがまとまったものはここだけです。
 あとは畝状竪堀だ、と思いなんとか登りつめ反対斜面に駆け寄ったのですが残念ながらすでに畝には雪が積もっています。泣く泣く真っ白となった郭の写真をとり、リベンジを誓ったのでした。
【戻る】