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上月城跡


登城日:(2004.12.18→2011.01.10)
所在地: 佐用郡佐用町上月
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
二の丸裏にある竪堀を見上げる 太平山城をバックに上月城本丸跡  上月城は、鎌倉時代末期(1300年代)に宇野播磨守太田入道山田則景の息、上月次郎景盛が、太平山(樫山)に初めて築いたと伝えられている。
 上月氏は景盛、盛忠、善景、景満と続くが、そのいづれかの時、本城を谷を隔てた南の荒神山に移しており、之が現在の上月城跡で、中世山城の様態をよく残している。

 嘉吉の乱(1441年)で赤松氏は没落し、播磨は山名氏の支配する所となったが、長禄の挙(1458年)によって赤松政則が播磨を回復するも、山名、赤松、尼子等が攻防を繰返し、弘治2年(1555年)赤松政則の孫右京太夫赤松政之が置塩城より上月城に入り、その子赤松蔵人大輔政範は西播磨5郡16万石を領し西播磨殿と呼ばれていた。

上月城縄張り。汚れたままで撮影したのは失敗。  天正5年(1577年)織田信長は毛利氏攻めの為、羽柴秀吉を総大将として播磨に入り、毛利に与した佐用の福原城を攻略し、高倉山に本陣を置き1万5千の軍勢で上月城を包囲し、救援に馳せつけた宇喜多直家の軍を退け、12月3日遂に上月城は落城、政範は自決して果てた。秀吉は城中将士の首を悉くはねた上、見せしめの為、城中の女供200人を串刺しと磔にして、備前美作播磨の国境附近にさらした。今も地獄谷の名が伝わっている。
 秀吉はこの後を尼子勝久、山中鹿之介に守らしめたが宇喜多勢に攻められ撤退し、宇喜多は之を上月十郎景貞に守らしたが再び秀吉軍により落城、景貞は敗退中櫛田の山中で自刃したと伝えられる。
 再び尼子勝久、山中鹿之介は上月城に入ったが、毛利軍は山陰、山陽の両道より3万の軍勢を以て、天正6年(1578年)4月18日、上月城を包囲した。秀吉は急ぎ救援の為、高倉山に陣を進めたが、三木城攻略の為、6月26日高倉山より兵を引いた。子の為、上月城は孤立し遂に7月5日勝久は毛利氏に降伏し開城自刃した。山中鹿之介は備中の毛利輝元の陣へ護送の途中、高梁川の合の渡しで斬殺され、その果敢な生涯を終えた。

 上月城はその後、廃城となり今日に至っている。文政8年(1825年)赤松氏落城の時の守将の末裔大谷義房が250回忌を営み慰霊碑を建立し山上に残されている。

『上月城跡案内板』より

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資料 【地図を表示する】    
鎌倉末期 上月次郎景盛が、太平山(樫山)に初めて築いた。
弘治 2 1555年 赤松政則の孫右京太夫赤松政之置塩城より上月城に入る。
天正 5 1577年 織田信長方の武将羽柴秀吉が、高倉山に本陣を置き1万5千の軍勢で上月城を包囲し、救援に馳せつけた宇喜多直家の軍を退け、12月3日遂に上月城は落城。
赤松政範は自決して果てた。
天正 6 1578年 秀吉は尼子勝久、山中鹿之介に守らしめたが宇喜多勢に攻められ撤退。
宇喜多は之を上月十郎景貞に守らしたが再び秀吉軍により落城。
 再び尼子勝久、山中鹿之介は上月城に入ったが、毛利軍は山陰、山陽の両道より3万の軍勢を以て、天正6年(1578年)4月18日、上月城を包囲し、遂に7月5日勝久は毛利氏に降伏し開城自刃した。その後、廃城となる。

私見
山中鹿之介の墓石  6年ぶりの上月城訪城でした。以前は鬱蒼としていた木々も伐採され、さっぱりとしてしまっています。小学生なら「男前になって」と近所のおばさんに言われること請け合いです。登城道も綺麗に整備していただいておりますので安心して登ることができますし、駐車場も裏手にあり、スペースに困った6年前が懐かしく感じられます。
 今回は上月城の地形がよくわかるようになっていますのでじっくりと見て回ることができました。「上月城の醍醐味は切岸だ」と言われる方が一緒にいてくださったのでいろいろと教えていただけました。今回は搦め手を特に注意するという目的がありましたので二の丸の奥の堀切を西側斜面へ降り、そこに広がる削平地のような横堀跡や、それと垂直に存在する3本の竪堀などを確認することができました。以前とまったく様相を異にする上月城とその印象に内心驚きっぱなしっでしたが、やはり誰と行くかというのが一番重要なのでしょうね。自分だけだったらついつい楽してしまいますし(^^;
堀切がよく確認できます。  冬場の山城オンシーズンに上月合戦関連の城めぐりをしなきゃ、と思ったら雪がふりしきる1日となってしまいました。しかし多少雪があるくらいですと堀切が明瞭に確認できるようになりますし、いいこともありますよね。とは言え雪が降る中ではあまりあちこち歩きまわる気も失せますが(^^;。
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