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室山城跡 登城日:(2004.01.12) 所在地: 揖保郡御津町室津 |
歴史 |
室山城がいつ築城されたのかは明らかにされていない。が、少なくとも建武二年(1335)には赤松円心が、足利尊氏を追討して西下する新田義貞を迎え撃つべく防衛拠点としたのが室山城であったとされている。円心は長男の範資を室山城の守りにつけたが、義貞の勢いは止められず逆に室山城は新田方の手に落ちてしまう。 後に室山城を奪還した円心はこの地に孫の本郷掃部助直頼、赤松雅楽助頼則を置いて守らせた。嘉吉の乱では、赤松播磨守満政が室津から上陸して城山城の満祐を攻めたこととしてもこの地は歴史上に登場してくる。 嘉吉の乱後、播磨守護となった山名持豊(宗全)は、室山城に政豊を置いたが、たびたび赤松一族に狙われることとなる。 応仁の乱後には、赤松政則が旧領播磨・備前・美作を回復するようになる。そして備前三石城の浦上美作守則宗に室山城を補修させ、これを守らせた。ここに関所を設け大いに蓄財した則宗は主君政則と対立するようになり、則宗の孫である村宗の代には当時の主君義村を室津の見性寺にて殺害するまでに至った。 その後赤松政村(のちの晴政)が父義村の仇を討ち、村宗を殺害した。が、依然室山城は浦上氏が維持していた。 やがて置塩城の赤松惣領家が衰退すると、龍野の赤松村秀・政秀父子が台頭するようになる。政秀は晴政の女婿であったので晴政に代わって室山城の浦上政宗と対立していくようになるのである。政宗は子清宗の嫁に姫路城主黒田職隆の女を迎え、黒田氏と手を結ぼうとしたがその婚礼の隙をついた政秀により室山城は落城、以後は廃城となった。 『日本城郭体系12』新人物往来社刊参照
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資料 |
私見 |
室山城(室津城とも)は国道250号線を海岸沿いに走り、室津港のところで集落へと入っていきます。いきなりの登り斜面をのぼりつめると右手に「室津二の丸公園」がありました。このあたりはまだ時期は早いんでしょうが、すでにほのかに梅の香りが漂い、実にすがすがしい気分です。そしてそのまま進むと道路は一旦右に迂回するのですがすぐに左にカーブをえがきます。ちょうど丸い地形の丘の外周を回るようなイメージです。そのカーブの内側の小高いところが本丸跡です。 登り斜面の途中に小さな城址碑がつくられています。そしてその先は今の季節がらなんでしょうが、草木が枯れ放題の畑?でしょうか、が広がっています。今はほとんど民家が建ち並んでしまってその規模はうかがい知ることができませんが、資料によると本丸が東西44メートルx南北22メートル、二の丸が東西41メートルx南北21メートルとなっており、これを囲む幅5.4メートル、深さ3.6メートルの空掘が232メートル(!)も続いていたんだそうです。 赤松家とは縁が深いこの地でどれほどの血が流れたんでしょうか。この日は天候もよく美しい瀬戸内海を見ながら、またほのかに香る梅を楽しみながら、当時のことをぼんやりと考えたのでした。
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