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高崎台場跡登城日:(2011.03.21) 所在地: 洲本市由良町由良 |
歴史 |
高崎台場は、安政元年(1854)に幕府の命によって徳島藩が築造した沿岸台場である。徳島藩は、今田増田之助に命じ、設計は藩の西洋砲術指導者であった勝浦安右衛門が担当した。同五年(1858)には改修が実施されたが、それ以外にも何度かの改修があったと見られている。 その後明治三十一年には、近代要塞としての高崎砲台が設置され、内部の大部分がその建設により改変を受けてしまった。 『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』東京堂出版刊・『淡路洲本城』城郭談話会刊参照
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資料 |
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私見 |
淡路島の南東部に沿うように、南北に伸びた成ヶ島がありました。渡船を使って数分で上陸できるお手軽な無人島です。ここには由良城、六本松台場などもありますが、まずは一番南に位置する高崎台場を目指します。歩くこと約2キロの道のりですが、地図で見れば淡路島との距離が一番短かそうな南端からヒョイと渡れるようにならないものですかねぇ。 近づいていきますと、次第にその姿がわかるようになってきます。白い石垣を持つその様はまさに海上に浮かぶ要塞のようです。以前来た時はものすごい藪で退散したのですが、この日は草刈りをされた直後という好機でしたので内部の地形もよくわかるようになっていました。明治期の改修された後でも幕末の遺構として、石垣で囲まれた火薬庫がこのあたりにあるはずなんですが、残念ながらよくわかりません。しかし一帯に残る近代要塞としての遺構も見応えがありますね。レンガ造りの建物が植物の中に朽ち果てているような状態は、完全に別世界にいるような錯覚を覚えます。そして上まで上がってみると紀淡海峡を望むこともでき、遠くには友が島も見えています。この海を守っていたのだなとじわりとくるものがあります。また友が島にある池の前台場の姿が見えてくるような気もしてきます。 さて、最大の見どころへと移動することにしましょう。この高崎台場の周囲には高い石垣が現在も残っています。普段は海に浸かっているため下に降りることができないのですが、この日は大潮の干潮時間を狙ってきていますので、じっくりと石垣を堪能することができるのです。 「すごい・・!」目の前に広がっていた石垣は想像以上でした・・。。まっすぐに伸びた高石垣から受ける威圧感、そして石垣の白と、潮が引いたあとの藻を纏った石材の緑とが織りなす幻想的な美。改めて見れば石垣の中央からやや下あたりに見える黒いラインは普段の海面の高さなのでしょうね。フジツボが張り付いた石垣というのも新鮮で素敵です。外海側の石垣は傾斜が緩くて、普段見る近世城郭にはないものでしたが、石材には刻印を持つものが多く含まれています。これは由良城の石垣を持ってきた名残なのですね。見覚えのあるものもありますが、これらは池田家の刻印なのでしょうか。 ぐるりと一周しますとより一層台場の規模を知ることができます。南側の石垣は高く、そして傾斜も急なもので、内海側は船溜まりがあったのでしょうか、低い石垣で構成されています。石材も別モノですが、どうやら積み直しもされているようです。 高崎台場の一番のお奨めは、やはり紀淡海峡側に築かれた緩斜面の石垣でしょうね。普段は幕末台場に目を向けられることは少ないかもしれませんが、干潮を狙って一度ご覧になってください。きっと感動しますよ、ここは。石垣好きにはお奨めです!
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