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屋形構跡登城日:(2006.02.18) 所在地: 神崎郡市川町屋形 |
歴史 |
池田輝政の四男輝澄は自身の家中騒動により所領を没され因幡鹿野に移されていた。甥である鳥取藩主池田光仲の監視下、堪忍料として西播磨の神埼郡を中心とした一万石を与えられていた。輝澄の長子政直は寛文三年(1663)福本藩を開いたが、同五年に没してしまった。そのため翌六年に政直の弟政武が七千石で寄合旗本に、その弟政済(まさなり)が三千石で旗本屋形池田家として分家を果たした。
その屋形池田家の陣屋ができる以前には赤松の支族が構を居していたようである(『播磨鑑』)。分家池田家は11代まで続き幕末を迎えた。
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資料 |
私見 |
JR播但線「鶴居」駅から東南東の方向に約1キロ播但道手前の工場とその周りの竹薮が屋形構跡でした。大して期待せずに近づいていきますとなんと標柱が建てられていました。その脇にある斜面4〜5メートルほどをあがっていくと削平地が広がっています。若い竹が密集しているのでなかなか前に進めません(--;。目視では背の低い土塁が東西に走っているのがわかるのですが、撮影が難しいぃ・・。 また、なにか建物があったのか礎石らしい石が残されています。力を込めて竹を踏み分けて進むのが大変です。ようやく土塁を越え、南側に出るとさらに広い削平地にでました。そこで土塁が弧を描いているのがわかりました。もっとじっくり見ればよかったのですが、藪がひどいので止めてしまいました。資料によれば石垣があるとか・・どうだったんでしょうね。
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