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浦戸城跡

登城日:(1999.07.25→2008.07.28)
所在地: 高知市浦戸
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史 出土した石垣 浦戸城の井戸跡  鎌倉時代末期にこの地の豪族の城として築かれ、戦国期には長岡郡本山から高知平野に進出した本山氏の勢力下におかれた。永禄三年長宗我部国親が当城を攻めて奪い、居城長岡郡岡豊城の支城とした。国親のあとを継いだ元親は天正十六年居城を一旦大高坂城に移した後、同十九年頃当城に移し、滅亡まで約十年間長宗我部氏の本城となった。
 慶長五年関ヶ原の合戦で豊臣方についた元親の子盛親は除封され、土佐は山内一豊に与えられた。長宗我部氏の遺臣らはこれを不服とし浦戸一揆をおこしたが、鎮定された。同六年当城に入った一豊は、同年九月から高知城の築城にとりかかり、同八年には新城に移り当城は廃城となった。主都としての城下町運営にはふさわしくなかったのだ。
◆浦戸城天守跡
 現在地は浦戸城詰ノ段北東隅に位置する。中世の山城としては珍しい天守跡である。天守跡は詰ノ段よりも7m高く、いびつな台形である。上部は東西11m、南北15mで城八幡(手前)・大山祇(奥)の二つの小さな祠がある。天守跡の斜面には石垣の名残と思われる石が露出している。
 なお、北側斜面は1958(昭和33)年の展望台造成工事でその一部が削り取られている。松野尾章行著の『皆山集』に掲げる「浦戸城古城略図」には『五間四方』の天守跡が描かれているが、その広さや造築された時代から長宗我部元親の築いた天守は三層であったと思われる。なお、元親が築城した浦戸城以前の城郭である岡豊城には、まだ天守は出現していない。

『浦戸城跡案内板』より

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資料 【地図を表示する】
 

私見 浦戸城天守台跡 美しい海が広がっています。  現在の浦戸城の状態では一見よくわかりませんが、『皆山集』の浦戸城古城跡図を見てみますと想像をはるかに超える規模であったことに驚かされます。天守台を含む駐車場、坂本龍馬記念館一帯を本城として、各尾根筋に郭が段々とつくられています。残念ながら建物や道路の建設により破壊されまくっていますね。桂浜という一等観光地を有効活用するということなのでしょう。立派な城址碑や天守台跡、井戸跡、移築された石垣があるだけでもよかったと思うべきか(^^;。でもまぁ想像はいつだって、誰だってできます。なんとか往時の状況を思い浮かべられるよう発掘調査報告書を読んでみます。
 現在石垣が展示用さながらに置かれているのは1991年からはじまった国民宿舎「桂浜荘」の改築工事に先駆けた発掘調査の成果です。城域から見れば部分的な発掘ではありますが、随分と石垣も出土しているようです。また瓦も大量にでてきており、当時そこに瓦葺きの建物があったことがうかがえます。しかし建物礎石自体が見つかってないということなのですね。ま、きっともっと掘れば出てくるんでしょうね(^^;;。高知県内でも貴重な遺構が出土した浦戸城。お城めぐりをされている方もスタンプラリー状態で通りすぎられてしまうことでしょうが、ここから見える景色はきっと往時と同じはず。しばらく静かに眺めていたくなってきませんでしょうか。
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