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山科本願寺南殿

山科本願寺南殿跡


登城日:(2008.09.21)
所在地: 京都市山科区音羽伊勢宿町
 
【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
山科本願寺南殿跡である光照寺  浄土真宗中興の祖である蓮如上人は、本願寺再興の夢を山科盆地に求め、文明十年(1478)から六年近くの歳月を費やして建設されたのが山科本願寺である。
 山科本願寺は、御影堂や阿弥陀堂など豪壮な堂舎や屋敷が建ち並び、二重三重に巡らされた土塁や濠により囲まれていた。その寺域東西800メートル、南北1000メートル程度の規模があったものとみられ、そこでは寺内町と呼ばれる独立した空間を築きあげていた。
 山科本願寺は仏徒の支配する独自の世界を創出しようとしたものであったが、天文元年(1532)に六角氏と法華宗徒の連合軍の攻撃を受け、その造営から50年余で焼失し、大坂の石山本願寺に移った。現在では山科中央公園や民家所有地のなかに土塁や濠などがいくつか残っているにすぎないが、これまでの発掘調査では、石垣遺構・鍛冶場跡・石室跡などの遺構が検出されている。
 延徳元年(1489)、75歳になった蓮如は法燈を実如に譲り、ここ音羽の地に隠居所を設け、自らの住まいとした。これが山科本願寺南殿である。この南殿も、城郭的な施設を備え、200メートル四方程度の規模があったものと推定されている。邸内には園池が築かれ、築山を構え、持仏堂・山水亭・台所などが設けられていた。
 「山科本願寺南殿跡」及びその西方に所在する「山科本願寺跡」は、強固な防御施設を備える中世城郭宗教都市としてわが国の歴史を知る上で重要な遺跡であることから、平成14年12月19日にその一部が国の史跡に指定された。

◆南殿光照寺
 泉水山光照寺といい、真宗大谷派の末寺にて浄土真宗を中興された蓮如上人が、この地に造営された南殿に延徳元年(1489)八月二十八日退隠されて明応八年(1499)三月二十五日にこの地で往生されたのであった。
 然るに天文元年(1532)八月二十四日六角定頼らの兵により、諸堂をはじめ、この南殿も本願寺と共に焼亡いたしました。
 幸いにして蓮如上人御在世南殿山水亭の遺跡をのこすため、東本願寺家老粟津家の祖元昌が、南殿光照寺を建立し現在に至ったのである。

『山科本願寺南殿跡案内板』より

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資料
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私見
山科本願寺南殿の土塁跡  幾多の戦をくぐり抜けてきた蓮如上人が最期をむかえられたのがここ山科本願寺南殿でした。光照寺、南殿幼稚園、その脇のフェンスに守られた土塁がその範囲となっているようです。かなり広いです。草が伸び放題となっておりしっかりと確認はできませんでしたが土塁や堀跡などが良好に残っているようですね。史跡指定をされているためにきちんと守られているのは分かるのですが、あのままフェンスで囲まれているままなのは寂しいように思います。
 早朝にやってきてあちこち迷いながら、細かく入り組んだ住宅街を怪しくうろうろしてしまったのですが、この入り組んだ路地は当時と何か関係があるのでしょうか。城下町なら鉤状の路地やT字状に入り組んだ構造をとることがありますが、このあたりのものはどうなんでしょうね。
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