HOMEへ Check   Twitterでつぶやく  

光城跡
登城日:(2002.09.01)
所在地: 南安曇郡豊科町
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
光城跡本郭と古峯神社 ◆光城址と古峯神社のゆかり
 この山頂にお城が築かれたのは遠く五百年余りの昔、戦国時代もまだ始めの頃、海野六郎幸元という武将がここに城を築いて自ら光之六郎幸元と名乗ったといわれている。この海野氏の一族は、そのころ会田、刈谷原、田沢(上の山)、塔ノ原にそれぞれ城を築き、互いにノロシ等を使って連絡しあって栄えていたので、城内の最も高いところでノロシ台のあたりに火の守り神とされる此の古峯神社が祭られてきたものであろう。
 やがて戦国時代の末頃、川中島の合戦が近づくや、武田信玄(晴信)の先鋒によって、天文二十二年(1553)三月、刈谷原城などとともに光の城も攻め落とされて武田方に従ったということである。 本郭と二の郭との間の空堀  豊科町内では規模の大きな山城で、鎌倉時代にこの地に来住した海野氏の一族、光氏によって戦乱の激しくなった戦国時代(16世紀)に築かれたと考えられる。
 犀川右岸丘陵上の尾根道南端を固めており、武田氏の松本平進攻に対しても、兵を配備し籠城したとみられる。しかし、天文二十二年(1553)、刈谷城攻めに際し戦わずして落城した。その後、天正十年(1582)に松本城主となった小笠原貞慶によって修復されたと考えられる。

『光城跡案内板』より

【戻る】

資料  

私見
光城跡から見えるアルプスの山々  今回の長野攻めで一番の高所にある光城をめざしました。地図で見てますとどうやらかなり上のほうまで車でいけるようです。城跡を示す看板が出ているわき道から車で登ること約10分くらいでしょうか。かなり高いところまで登らされているのを感じながら車を走らせます。途中視界が開けたところでは遠くアルプスの山々がパノラマとなって展開しているのですが、うっかり目をそらすと事故りそうなので要注意です。
 やがて山の案内板がたてられた地点に到着しました。「ここから徒歩か」と思ったのですが、このレンタカーだとこのまま左折してさらに奥にいけそうです(笑)。って林大城跡でもかなり怖い思いをしたというのに懲りない奴>私。
 今回は成功でした。車で本郭のあるすぐ裏手にまで登ることができました。その直前には空堀が大きく口を開けているところに木橋が架けられていてちょっとびくつきながらではありますが、無事到着です。この光城、標高911mの高さを誇るだけあって眺望はさすが、というか見事すぎます。よく見ると山頂部にはあたり一面に桜の木が植えられています。どうやら春には絶景の桜と雪を冠したアルプスが拝めるんでしょうね。羨ましい。
 さて、遺構ですが本郭の中心部には古峯神社が建ち、その回りを2m弱ほどの高さの土塁が取り囲んでいます。その反対側は一段低くなって、ちょうど帯曲輪のようになっていて、二の郭への通路のようになっています。
 二の郭に行ってみます。すると本郭との間に大きな空堀がつくられていてしっかりと防御の意図が今でも刻まれている、そんな印象でした。こちらのほうが桜の木が多く見られ、花見のメイン会場になるのでしょう。ってことで見事な眺望と、数本の空堀と郭跡に大満足な光城跡でした。
【戻る】