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田ノ口館

田ノ口館跡


登城日:(2012.07.22)
所在地: 佐久市田口、蕃松院
 
【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
 大梁山蕃松院の由来
田ノ口館跡である蕃松院  当山はご本尊に釈迦牟尼佛(お釈迦さま)を裁く曹洞宗で、本山は道元さまの開かれた永平寺(福井)と、瑩山(けいざん)さまの開かれた総持寺(鶴見)である。み教えの要旨は「今、ここで懸念いっぱいに生きよう」である。
 その後、天正八年(1580)群馬県小幡、宝積寺第九世儀山(さんずいに元)孝大和尚様により整備され、曹洞宗として開山された。
 天正十一年(1583)戦国の武将、田口城主依田信蕃公は、岩尾城を攻め、弟信幸公と共に没した。その子松平康国公、小諸城主となるや父の追福供養を念じ、その居館跡に堂宇を再建し、父の御戒名「蕃松院殿節叟良(たけかんむりに均)大居士」より寺号を蕃松院とした。
 江戸時代に入り、この地は田野口藩の領下となり、天明六年(1786)より歴代藩主のお位牌を安置し菩提寺となった。寛政二年(1790)落雷のため焼失した。現本堂は文政五年(1822)の再建であり、間口十三間、奥行九間の入母屋造りで特に、その規模は県内屈指で、彫刻の多用等、江戸時代後期の曹洞宗本堂建築の特色を今に伝えている。
 歴代住職は正法の興隆と檀信徒の安祥を願い護持発展に精励された。
 とくに明治初期、第二十一世新井良音大和尚様、仁王門の建立等に努め中興の祖と敬慕されている。
 寺の裏山には信蕃公兄弟の墓と伝えられる五輪塔があり、近年その礎石下から愛用されたと思われる刀が発見された。
 後方には、信蕃公が郡下を眺望した古城趾が高くそびえる。実に、風光清秀の中に堂宇整然とした佐久の一大古刹である。

蕃松院案内板より

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資料
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私見
田ノ口館跡である蕃松院  龍岡城を散策したあと、田口城へと登ろうと登城道を探していたところ、何となく気になったので一旦通り過ごした蕃松院に戻るようにして立ち寄ってみました。するとそこにあった案内板を読むと、ここが田口城城主の居館だったことを知りました。立地条件から見てもまぁ妥当なところですが、現在の蕃松院の構えもなかなかの威厳を放っていますので、私もそれに惹かれたのでしょう。
 『信濃の山城と館1(佐久編)』(戎光祥出版刊)を見ますと、この田ノ口館のことが書かれていましたので、載せてみることにしました。依田信蕃の居館跡であったことは確かなようですが、いつ頃居館が造られたのか、お寺の創建時期との関係も気になりますねぇ。
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