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高取城跡登城日:(1999.08.06→2010.02.07) 所在地: 高市郡高取町大字高取 |
歴史 |
高取城は別名、芙蓉城ともいわれ、近世山城の典型としてよく知られ、巽高取雪かと見れば雪でござらぬ土佐の城 とうたわれている。築造年代に関しては元弘二年(1332)との説もあるが確実ではない。しかし南北朝時代、南大和に大きな力を振るった越智氏の支城の一つとして築かれたことは疑いない。 元弘の頃に一時、子嶋氏の居城となり、さらに越智氏の居城となった。 城の形態としては永正から天文(1504〜1554)の頃に整備されたと見るべきであろう。当初の頃は越智氏にしても高取城をたんに越智城、貝吹山城に対する出城としか考えていなかったようであるが、自然的要害の条件を備えているところから次第に本城的なものとして重視されるに至ったようである。 越智氏なき後、織田信長の城郭破却令によって廃城となっていた高取城の復活が筒井順慶によって企図され、天正十二年二月高取城を出城と定め、郡山城ともども工事を進めたのであった。 この一国的規模での本城−出城主義の方針は豊臣秀長にも引き継がれ、本格的に近世城郭としての高取城が築かれたのは、百万石の大名として郡山城に入った豊臣秀長の時代であった。 その後の歴代城主は本多氏が寛永十四年(1637)三代で断絶し、寛永十七年十月植村氏が入部し、明治維新を迎えたのである。 城跡は、標高583.3メートルの山頂部を本丸として以下二ノ丸、三ノ丸、大手曲輪、吉野口曲輪、壺坂口曲輪が連なっている。それに隣接する外郭部は、侍屋敷群として放射線状にのびる大手筋、岡口、壺坂口、吉野口の入り口があった。 これら主体部はかつて土塁、柵、空掘等により、段丘状の削平地に築かれた中世城郭の城域を一部拡大したものであったろう。その意味で現存する内郭、外郭の縄張りは兵法を強く意識した近世城郭の完成期の特徴を示す構造になっている。 例えば、矢場門から宇陀門、千早門そして大手門の門台石組み遺構にみられるようにいずれも右折れ虎口(入口)として配置されている。 その他、本丸の枡形虎口の精緻さや、本丸の各隅角部石垣に利用された転用石材(寺院の基壇石、古墳石室の石材等)も特記されよう。また、本丸、鉛櫓下の背面に補助的に設けられた付台石垣の下に配列された胴木の存在は山城での遺構例として唯一の発見例として注目すべきものである。 ◆本丸 本丸は大小二棟の天守閣と鉛櫓・煙硝櫓を多聞櫓(塁上に設けた細長い単層の櫓)と塀によって接続する。これを連立式形態といっている。東西四十間余(約73メートル)南北35間(約64メートル)の凸字型の平面をなしている。地型の変化に対応して築かれた山城は、自然に不規則な縄張りとなる。 しかしこの本丸は平城城郭のような整然さを有するので築城技術の完成したころの構築とみなされる。 昭和47、48年度の県教育委員会の高取城修理にともない、本丸東北隅の部分を対象に、石垣の実測、根石の状態を調査したが、石垣のひずみの部分は後補のものであり、隅石には転用材を使用していることが明らかになった。転用石の中には漆喰の付着した石が二箇検出され、切石古墳の石を使ったものと想定されている。漆喰については分析によると桜井付近の古墳漆喰の分析値と似ていると報告されている。 また、本丸鉛櫓下の背面に補助的に設けられた付台石垣の下に配列された胴木の存在は、山城での遺存例として現在のところ唯一の発見例で注目すべきものである。 ◆猿石 高取城二の門外に所在し城下町に下る大手筋と明日香村栢森へ下る道筋の分岐点に位置する。花崗岩で高さ85センチ幅75センチ厚さ65センチを測る。目と鼻は円形で顔面は丸く平坦である。口元の両端をあげ耳は顔側面の全体にとる。 手は右手をややあげている。陽物らしい表現も見られる。背中にも表現がみられるが明確ではない。飛鳥の「猿石」と同様に現在の明日香村平田から掘り出され高取城築城の際に石垣材として運ぶ途中にこの場所に置かれたようである。飛鳥時代の製作と考えられている。猿石がのせられている台石は古墳の石材の可能性がある。 『高取城跡案内板』より
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資料 |
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私見 |
高取城に久々にやってきました。今回も一番楽な方法である、車で一番奥まで行って七つ井戸からの登城ルートです。この冬枯れの季節だと前回の苔むしてひっそりと佇むイメージが随分違ったものに感じますから面白いです。高取城は比高がかなりあるにもかかわらず圧倒的なその石垣の量には驚かされますね。この上にかつては白亜の天守が連結された形態で聳え、周囲には合計27もの櫓が白漆喰総塗籠の外観でひしめきあっていたといいますからとんでもない光景です。そのうちのいくつかが現存、あるいは復元でもされていたらここはもっと人気の出るお城になるんでしょうけれど、高取城は誰もいない静かな中をゆっくりと散策するのが好きなので今の状態がベストなのかもしれません。 さて、七つ井戸をあがり、新櫓の真新しい石垣はそこそこに右手に広がる本丸石垣にしばし見とれます。前回の印象と比べて随分と広くそして明るく感じるのは気のせいでしょうか。やっぱり整備されているんでしょうね。本丸の高石垣を見上げつつ、本丸を目指します。いきなり本丸というのはやっぱり気持ちの切り替えが不十分なのでいけませんね。ま、それでも十分楽しめるのがこの高取城です。門の礎石が残っているのを確認しながら本丸へ。石垣の中に細長い石が含まれていますが、どうやら古墳から持ってきた転用石のようです。奈良だと石材に困らないのかもしれませんが、転用石だと言われないと見落としそうです。本丸の内部は縄張り図で見ると三角形のいびつな形状ですが、その場に立つとあまり違和感を感じずただ広大な本丸に感動するばかりです。なかでも西側の石垣の上に立ち、二の丸を見下ろす景色と、東端に立ったところからの本丸の形状を見渡す景色が惹かれました。実に堅牢な構造ですね。 しばらく本丸を楽しむと、次はそこから順に北方へ下っていくことにします。ほんとはルートを逆にすべきでしたが、それでもなんども折れを歩かされるのは高取城の堅城ぶりがよくわかりますね。これでもかという構造は但馬の竹田城を思い出されましたが、秀長つながりでもありますので共通する部分があるのかもしれません。所々でQRコードの札が設置されており、それをケータイでスキャンするとCGで作成された当時の景色が再現された様子を見ることができる仕掛けがしてあるのは感心しました。ただどれだけの人が見るのだろう・・再現したCGの画像を印刷して設置しておけばいいような気もしましたが、ITの活用には大賛成なのでもっとがんばっていただきたいと思います。 大手門を抜け、千早門、宇陀門と通過していく間にも石垣が常にあり、高取城のスケールに驚かされっぱなしです。この辺りは侍屋敷が建ち並ぶエリアですが、往時はこんな山の上で生活をしていたんでしょうか。ここまで大規模な生活空間を持つ山城を知らないのでもう左右をただただキョロキョロしながら下り道を進んでいきます。そうしているうちに国見櫓跡に着きました。視界が開けて一気に遠くまで見渡せるようになっています。奈良県だけじゃなく、遠くは六甲の山並みまで見ることができるこの眺望は、夜に来ると一層感動することになるかもしれません。ただここまでくる道のりは考えたくないですが。・・ さらに下り道を急ぎます。一向に石垣エリアは続きますが、右手に水を張った池が見えてきますとようやく目的地に着きました。猿石です。飄々とした印象のお猿さんの石を撮影するために本丸から急いで降りてきたのでした。このまま下まで降りたいところですが、車が山上にあるためここから改めて”城攻め”となります。でも驚くことにやっぱり景色が違ってみえるもので、登っていくと高取城の堅城ぶりがより一層わかるとともに、恐ろしくなってきますね。これはとてもこんなルートを攻め登ってはいけません。そしていくつもの折れを過ぎた先に見える本丸の高石垣を改めて目にした時の感動は初めに見た時とは比べものにならないくらいでした。やはり下からあがってくることを強くお奨めします。あるいは壺坂口あたりからでしょうか。前回は夏場に来ましたが、やはり山城は冬場に来るに限りますね。
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