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松山城御根小屋跡登城日:(2005.08.16) 所在地: 高梁市内山下 |
歴史 |
御根小屋は備中松山藩の藩主の居館であり、藩の政務を行う役所である。当藩では城が標高430メートルにあるため、平時の政庁として御城山の麓に造られたものである。北は臥牛山に接し、南は小高下谷川を堀に見立て、西は現JR伯備線で限られたほぼ三角形の地形で、その面積は約34000平方メートル。旧制高梁中学校(現在の県立高梁高校)は、その跡地に建てられており、石垣は御根小屋の原型を今に伝えている。 創建年代は不明であるが、天正三年(1575)の兵乱で焼失した記録があることから、その歴史は、戦国時代まで遡ることができる。現在の姿は、江戸時代初期に代官の小堀遠州が再建をはかり、天和三年(1683)当時の藩主水谷勝宗により完成された。 幕末の資料では、登城には惣門を経て御殿坂を登り、中門を通って御殿に至る。中門の北側に作事処(現テニスコート)がある。高梁川で運ばれた米などは川端町で陸揚げされ、御蔵坂を通って米蔵に、武具は一段高い石垣上にある武具蔵(現運動場)に保管されていたことが記載されている。 備中松山城御根小屋跡は、平成三年四月に岡山県の史跡に指定された。 『備中松山城』高梁市発刊参照
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資料 |
私見 |
備中松山城があまりに有名で城下に目をやる方はどれだけいらっしゃるのかな・・?とちょっと心配(笑)になったりしますが、御根小屋跡付近だけじゃなく御城山麓は江戸時代の情緒をよく残した城下町です。小堀遠州作の庭が残されている頼久寺が最たるものですが、このお寺は関が原の戦い後に小堀正次(遠州の父)が代官として赴任してきた際の仮住まいでした。松山城が荒れ放題だったからなんですが、おかげでお寺は城郭といってもいいくらいの佇まいを見せていますね。 御根小屋が築造されたのは小堀氏、池田氏を経て寛永十八年(1641)常陸の下館から備中成羽を経由して水谷(みずのや)伊勢守勝隆、勝宗父子が入封してきてからのことのようです。その後は赤穂の浅野内匠頭長矩の定番となり、大石内蔵助らが城請け取りにやってきたのは有名な話ですね。その後も城主はめまぐるしく替わり、やがて伊勢亀山から入封した板倉氏が幕末まで治めます。 城山の天守や、その後ろにある大松山城を楽しんだ後はゆっくりと城下を歩いてみるのもいいものですよ。
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