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新庄山城跡登城日:(2012.04.29) 所在地: 岡山市東区竹原 |
歴史 | 亀山城主中山備中守信正の臣新庄助之進の居城であったと伝えられる。山頂に石鉄神社があり新庄助之進と伊予前神寺の分霊を祀る。もと奈良辺山と称されていたが、助之進が守るようになって新庄山と呼ばれるようになったという。室町時代後期の天文十七年頃浦上宗景が改めて焼失した。近年まで点々と焼麦が出土したという。翌年三月宇喜多直家は、浦上宗景の命により、砥石城の浮田大和守を打ち敗った恩賞として奈良辺の城を賜り乙子城よりここに移った。在城十年三十一歳の時主命により中山備中守と島村豊後守を同時に討ち、その功により亀山城を賜り同城に移った。 頂に本丸を構え、尾根筋に郭を縦列に配し先端に堀切のある連郭式の山城。築城年代は不詳であるが、亀山城主中山備中守の臣、新庄助之進の居城と伝えているので、十六世紀前葉であろう。ただし、現在の城跡は宇喜多時代に改修された跡。 天文十八年(1549)春、乙子城主宇喜多直家は砥石城主浮田大和が主君浦上宗景に背いたとし、宗景の軍勢と協力し砥石城を攻め、大和を敗死させた。このときの恩賞として宗景から新庄山城が与えられ、乙子城から移ってきた。 永禄二年(1559)、亀山城主中山備中守と砥石城主島村豊後守とが、主君宗景に対し謀反の噂があった。宗景は直家に命じてこれを誘致させた。この功により直家は亀山城を賜り、新庄山城から移った。 新庄山城は家臣に守らせていたが、直家が岡山城主となったとき、この城は役目を終え廃城となった。なお、本丸跡から焼麦が現在も出土する。 『新庄山城跡案内板』より
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資料 |
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私見 |
上道公園の駐車場に車を停め、北側の登城口から城を目指すことにしました。背中にテニスや野球に興じる人達の楽しげな声を受けながら黙々と登っていきます。どうやらハイキング道として楽しまれている方もいるようで、途中1組の方とすれ違いました。快適な登城道ですのであまり苦労することなく登っていけますね。そして約10分の後、標高90メートル(比高約75メートル)の新庄山城の主郭に到着しました。 神社の社がなんだかいい雰囲気を持っていましたが、言うまでもなく城とは関係ありません。北端の状態を確認し、眼下に広がる眺望を楽しんだ後は南方へと降りてみることにします。まっすぐ伸びた尾根上に南段もの郭が連なっていた構造となっていたであろうと想像しながら左右に注意を払っていきます。でもあまりそれと分る遺構は見つかりませんね。一応堀切跡かなと思われるところはありますが、全体に寂しい状態の城跡でした。この日は直家を辿るプランで動いていましたので次の城を目指すことにします。
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