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高越城

高越城跡


登城日:(2011.01.02)
所在地: 井原市神代町
 
【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
◆高越城と北条早雲
高越城の一の郭  高越城は、鎌倉時代末、蒙古襲来に備えて幕府が宇都宮貞綱に命じて作らせたと伝えられています。
 戦国時代には、京都伊勢氏の一族の備中伊勢氏が那須氏に代わって荏原荘を治め、この高越城を居城にしていました。
 伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)は、この備中伊勢氏出身で、永享四年(1432)父伊勢盛定の子としてこの地に生まれました。新九郎は、青年時代までこの城で過ごし、西江原の法泉寺で学んだといわれています。その後、30代で京都伊勢氏の養子となり、京都に上り幕府に仕え、応仁の乱の後、妹の嫁ぎ先の駿河国の興国寺城の城主となりました。その後、伊豆国(現在の伊豆半島)、相模国(現在の神奈川県)を治め、88歳で亡くなるまで、北条五代100年の関東支配の基礎をつくり、戦国大名の魁となりました。
 現在も高越城は、山陽道、小田川を眼下に、本丸を含めて5段の郭で構成されており、当時の状況をよくとどめています。

◆戦国の魁
法泉寺の絵を元に造られた北条早雲像  北条早雲は、永享四年(1432)中国高越城主伊勢新九郎盛定の子として生まれ、新九郎と名乗った。備中伊勢氏は室町幕府の政所執事を世襲した名族京都伊勢氏の分流である。
 新九郎は青年期を荏原荘で過ごし武芸と学問を菩提寺法泉寺古潤(*王のかわりに月)仁泉に学び、三十三歳で京に上り伊勢貞道の養子となり足利義視に仕え応仁の乱で伊勢に下る。
 その後妹の嫁ぎ先、駿河の守護今川家の内紛を収めた功によって駿河興国城主となった。そののち堀越御所に足利茶々丸を攻め、またたく間に伊豆一国を平定、さらに版図を相模に拡げ小田原城新井城を攻めて関東制覇の礎を築いた。
 このように武勇と情勢判断に優れた早雲は領国経営にも卓越した手腕を発揮し領民から名君と慕われ戦国大名の魁となったのである。

『現地案内板』より

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資料
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私見
高越城址公園として整備されています。  高越城は、北条早雲の生誕の地として以前から気になっていたところでした。最寄の駅である井原鉄道「早雲の里荏原」駅からして地元が早雲を推している本気度を感じます。駅前にある早雲の石像を撮影すると早速城を目指します。車で山上まで行くことができ、また駐車場が完備されているのですがその道のりは一旦城を通り過ぎて、北側から回り込むようなかっこうとなりますので意外と距離があります。しかしそれを補って余りある城への標識がいたるところに設置されていますのでまず迷うことはないでしょう。素晴らしい頑張りようです(^^。
一の郭から南東方面、二の郭を臨む  山上は高越城址公園として、大きな駐車場が作られています。右手にさらに大きな広場が作られていますのでお祭りがここでされるのでしょうかね。古代の高越遺跡であることを示す案内板を横目に、駐車場からは徒歩で城跡をめざします。ものの数分で冠木門が見えてきますのでそこからは登り坂となります。そして堀切(横堀?)を見た後は急な斜面を滑らないようにあがっていきます。(一応整備された迂回路もありますので大丈夫です。)三の郭跡である平坦地をすぎるとその上が主郭である一の郭です。周囲を一望できる眺望が素晴らしく、また周囲の山々がそれぞれ城跡であることがわかるように標識もつけていただいています。城の縄張りは一の郭を中心に、合計5つの郭から構成されていますが、公園整備された現状ではそれらの位置関係がわかる程度でしょうか。ここで育った早雲がやがて関東で覇を唱える一大勢力となっていったのだなぁと感慨にふけることがこの城での一番の醍醐味なのでしょうね。それにしても、最初にここを築いたのが蒙古襲来に備えたとか・・。ここにあることが非常に違和感を覚えますが、ほかにも同様の城がどれだけあったのか少し気になってきました。
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