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毛馬城

毛馬城跡


登城日:(2012.02.25)
所在地: 大阪市都島区毛馬町2〜4丁目
 
【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
毛馬城跡とされる一帯  元亀元年(1570)より始まった石山本願寺と織田信長との戦い(石山合戦)は、一進一退を繰り返した。織田信長は石山本願寺の周辺十箇所に付城を築いて包囲網を敷いたのに対し、本願寺では、高津・丸山・ひろ芝・正山・森口表・大海・飯満・中間村・鴫野・野江・楼の岸・勝曼・木津・難波など51か所にも及ぶ出城を構えた。
 毛馬城は、この石山方の出城の1つ、飯満(けま)が現在の字になったのであろうと考えられている。しかし正確に毛馬城がいつ頃、誰によって築城され、守将として誰がいたのかなどは一切不明である。
 また、天正六年(1578)、信長に対して叛旗を翻した伊丹城の荒木村重を攻撃するため、織田方が塚口郷・毛馬村・倉橋郷原田郡などに付城を築城した(「信長公記」)とされるも、この毛馬ではなく尼崎市内の食満(けま)のほうであろうという見方もある。

『日本城郭体系』新人物往来社刊参照

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資料
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私見
 毛馬は、淀川と大川とが合流する河川敷として整備されてしまっていますが、かつては石山合戦における重要な拠点の1つとして守られていたのでしょう。『大阪市の文化財』によれば毛馬町2〜4あたりを比定されていますが、推定地としてだいたいの場所を指し示すだけです。とりあえず堤防から見下ろした遠景を撮影して良しとします。ところでこの毛馬から大川を使って南下していけば大阪城の外濠そばまで行くことができます。戦略上だけじゃなく、物流運搬のルートとしても使われていたことでしょう。現在公園化されている中で、引きあげられたという大阪城の残念石が展示されており、石垣運搬ルートであったことも示してくれています。
 それにしても、本願寺の51か所の出城はあとどれくらい行けるでしょうねぇ。場所を比定するだけでもかなり大変です。
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