肥前名護屋城の周辺に各大名達は陣城を構築した。堀秀治は名護屋城から南西約6百メートルのところに陣を構えた。">
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堀秀治陣跡登城日:(2007.10.13) 所在地: 唐津市鎮西町名護屋 |
歴史 |
◆堀秀治の略歴 この陣の主である堀秀治は、その当時越前北ノ庄(今の福井県福井市)を城地とする約十八万石の城主で、文禄・慶長の役には、6000人の兵を率いて、開戦当時16歳の若さで参陣しました。しかし、秀治自身は渡海せず、戦いの間この陣で生活しました。 このあと、秀治は越後春日山(今の新潟県上越市)四十五万石に移され、31歳で没しました。その後堀家は、秀治の子忠俊の代で改易となりました。 ◆陣の概要 秀治の父である堀秀政は、早くから豊臣秀吉に仕え、その信頼も厚かったためか、子である秀治のこの陣は、本城から近く面積も11haと大規模なものです。陣は大きく分けて6つの曲輪(平らに造成した陣の一区画)で構成されており、遺構の残りも良好で、文禄・慶長の役に参陣した武将たちの生活ぶりを今に伝えています。ただ、残念なことに生活期間が短かったために、遺物は少量しか出土しませんでした。 ◆保存整備事業 ここ堀秀治陣跡は、昭和五十六年度から六十二年度まで発掘調査を行い、またこれと平行して昭和五十九年から平成三年度まで環境整備を行いました。 この陣跡は名護屋城本城を核とした、『歴史探訪ゾーン』の中の一つで、この他に豊臣秀吉の甥にあたる豊臣秀保陣跡や、織部焼で有名な茶人の古田織部陣跡、肥前佐賀の鍋島直茂陣跡等があります。 『堀秀治陣跡案内板』より
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資料 |
私見 |
小田原北条氏を滅ぼし全国統一を果たした豊臣秀吉は朝鮮への出兵を全国の大名達に命じ、肥前名護屋城をその本陣としました。世に言う『文禄・慶長の役』です。名護屋城の周囲には100を越える大小大名達の陣が築かれ、今なお多くの陣跡を確認することができるようになっています。堀秀治陣跡はそうした陣城の1つでした。 史跡整備が綺麗にできているので訪問は楽勝です。駐車場があり、そこから城域へと進むと搦め手側からの登城ということになります。とりあえず直登してみると斜面上部に少し石垣跡が残っています。また屋敷跡の礎石が随所に見られます。また空堀も確認でき、なかなか手をかけてるものですね。空堀は主郭部の南側下のが一番深く、わかりやすいです。ここもまた直登で郭内に入りましたが、土塁も残ってますね。また虎口まわりの石垣も素晴らしいです。 結構下草が残っている状態での散策でしたが、それでもこの堀秀治陣跡は良好に遺構が残り、散策しやすい城跡です。案内板にあった「11ha」が普段行く山城と比べてどうなんだろうとすぐにピンと来ませんが(笑)、少なくとも陣城としての私の認識を大幅に変えてくれました。
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