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平柳蔵人居館跡
登城日:(2003.02.19)
所在地: 川口市元郷4−12、南平公民館元郷分館
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史 石碑だけですけど、平柳蔵人居館跡 ◆中世の城館跡
 中世の東国武士の居館は、鎌倉時代に描かれた絵によると、周囲に堀や土塁を巡らし、板塀で囲われており、内部には厩・馬場が設けられ、入り口には橋を架け、門を構え、その上に物見櫓を建て、弓矢・楯を置いて敵に備えていました。また、館内には鍛冶などの工房も設けられ、武器の製作・修理を行っていたものと考えられています。
 中世の城館で、現在もその遺構を伝えるものは数少なく、今日の地名として残っている「城山」「曲輪」「堀の内」「根小屋」「何々屋敷」は、こうした居館の存在を示しているものです。市内には平柳蔵人館以外に東本郷の本郷城、安行吉岡の殿山陣屋、戸塚の戸塚城、西立野の藤浪陣屋などが存在しています。他に発掘調査によって東本郷の石御堂遺跡では館跡の存在が判明しています。戸塚城の発掘調査からは、大規模な堀・建物跡・物見櫓等が確認されています。


 『新編武蔵風土記稿』によると「平柳領元郷村」の項に、岩付城主太田資正の家臣に平柳蔵人というものがおり、元郷村に居住し、その周辺を領有していたとあります。また、平柳蔵人は永禄七年(1564)の岩付城主太田資正と下総の里見義弘が連合して、北条氏康と戦った鴻ノ台の合戦に参加して討死したと記されています。元郷の正覚寺は平柳蔵人の開基であり、この寺に墓所があったといわれ、領家の実相寺には蔵人の法名などの過去帳が残っていると伝えられています。
 また、『新編武蔵風土記稿』には「村(元郷村)の西の方に陣屋跡があり、広さ一町歩く(1ha)程の地で三重堀の跡というところに小溝が残っており、平柳蔵人の居住地であったという」と記載がなされています。この居住跡が現在の南平公民館元郷分館の所と推定されますが、その当時の面影は留めていません。

『平柳蔵人居館跡案内板』より

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資料  

私見  平柳蔵人居館跡へは埼玉高速鉄道「川口元郷」駅を降りていきました。やたら道に迷ってしまったのですがほんとでしたら駅から15分ほどでしょうか。元郷南小学校を目指していけば間違いないと思います。遺構こそないものの、石碑があるだけで十分ですよね。
 ここの案内板にもありましたように川口市にはまだまだいろいろと訪れるべきところがあるようです。また近いうちに探しにいってみます。
 しかしほんと疲れました・・・なんであんなに迷ってたんだろ。あ、そうそう案内板にある「鴻ノ台の合戦」って、国府台のことでしょうね。
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