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松山陣屋跡登城日:(2011.05.09) 所在地: 東松山市松葉町1丁目 |
歴史 |
風雲急を告げる幕末、川越城主松平大和守直克は、念願の再建なった上野前橋城に移封を命ぜられました。時に慶応三年(1867)一月のことでした。 この時、松山を中心とする村々三万余が、同前橋藩の飛地(領地)として残され、これを支配するために、この松葉町の地に「松山陣屋」がおかれました。 松山陣屋は、小川道を境に南と北に築かれ、土塁、空堀などを備えた立派なもので、陣屋と考えるより、むしろ前橋城の支城の性格を持つものと考えられるものです。 同陣屋付の士族(藩士)は二百五十八人で、当時松山の推定人口一千六百人ほどの地に、家族を含めての大幅な人口増を見た事によって、松山は大きく変貌することになります。 『松山陣屋跡案内板』より
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資料 |
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私見 |
東部東上線「東松山」駅を南へ降り、西へ歩くこと約15分ほどで東松山市役所につきます。近づくにつれてその存在が分かるようになってくる城址碑はかなり立派なものですね。現在その遺構はほとんど見られませんが、市役所の敷地内に案内板と城址碑が設置されていました。かつてはこの辺り一帯が陣屋であったことが案内板の地図にも示されていますので大変見やすくしていただいていることには驚きました。(すでにかなり文字が薄くなってしまって見づらいですが) 利根川被害に悩んだ前橋城主松平朝矩は明和四年(1767)に川越に移城しました。その後前橋藩は川越藩の分領となってしまったために前橋城下はかなり衰退してしまったのでしょうね。松平大和守直克の代になって、文久三年(1863)ようやく幕府から再建の許可がおり、直克は晴れて慶応三年(1867)に前橋城を再建することができました。そのことが案内板の文章に見らえる『念願の再建なった』ということになるわけです。その後ここに松山陣屋が作られたということですが、幕末に城をつくったり、陣屋(といっても堀や土塁囲いの立派な平城)を構えたりとかなりお金を使ったものですね。すぐに廃藩置県で使えなくなってしまったのがもったいないです。しかし平成の今もなお、市役所として行政機関が置かれていることに歴史の面白みを感じずにはいられませんでした。そういえば前橋城も群馬県庁となっていましたねぇ。
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