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豊臣秀次館跡登城日:(2008.09.21) 所在地: 近江八幡市宮内町 |
歴史 |
◆豊臣秀次(1568〜1595) 永禄十一年(1568)豊臣秀吉の姉の子として生まれる 天正 九年(1581)羽柴秀吉の養子となり、羽柴秀次と名乗る 天正十三年(1585)18才で近江国43万石を与えられ、八幡山城を築城し、城下町八幡を開く 秀次のまちづくり 「八幡山下町掟書」楽市楽座を定め、有力な商人や職人を呼び寄せ、自由商業都市とした 「町割」碁盤目状の通りをつくり、職種別に住む地域を分けた。また、下街道(のちの朝鮮人街道)をこの町割に引き込み、陸上交通の要衝とした 「八幡堀」城の堀としてだけではなく、琵琶湖につながる運河として湖上交通の要衝とした 天正十八年(1590)尾張・北伊勢100万石を与えられ、尾張清州城にうつる。八幡山城には京極高次が入る 天正十九年(1591)秀吉の実子(鶴松)が病死し秀吉が隠居すると、後を継いで豊臣秀次と名乗り関白となる 文禄 二年(1593)秀吉の実子(秀頼)が生まれる 文禄 四年(1595)謀反の罪を着せられ高野山に追放、自害を命ぜられる。享年28才 天正十三年(1585)に羽柴秀次によって、この八幡山(鶴翼山)に八幡山城が築かれました。八幡山城は山頂の城郭と南山麓の屋敷群に分かれており、赤線で表した大手道は、秀次館跡の出入り口から家臣屋敷群のほぼ中央を直線的に走っています。大手道の両側には雛段状の家臣団屋敷群跡が広がっています。また、その屋敷群を囲む尾根には、石垣を伴った曲輪と呼ばれる遺跡が残っています。この曲輪と築城時に開削されたと伝わる八幡堀が城の総構えを形成していたと考えられます。 天正十八年(1590)に、秀次が尾張清州に移った後は、京極高次が代わって城主となります。その5年後、秀次が謀反の疑いをかけられて高野山で自刃させられた文禄四年(1595)には京都の聚楽第と同様に八幡山城は廃城されました。 『豊臣秀次館跡案内板』参照
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資料 |
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私見 |
八幡山城へと続くロープウェイ乗り場を右に見ながら麓の道を奥へと進んでいきますと図書館が見えてきます。図書館前を右折し傾斜をあがっていくと豊臣秀次の立像が置かれていました。南方遥か遠くを睨んでいるかのような表情が印象的です。そしてここから北西方面に歩いていくと秀次の居館があった場所です。往時は南からまっすぐ一直線に北に延びた大手道と、その両脇を固めるようにして麓から居館までの距離をびっしりと何段かの雛壇上に配置されている家臣団館群が建ち並んでいたようですね。居館跡一帯は石垣がよく残っており、この時は順風満帆な人生を過ごしていたのかなと思ったりもします。この時はまだ整備が完全に終わっているわけではなく、ナンバーがふられた石材が積み直されるのを待っているといった状態でした。完成した居館跡はまだ見ていませんが、なかなか見ごたえがある復元となっているのではないかと思います。
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