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坂本城跡
登城日:(1999.06.28)
所在地: 大津市
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史 坂本城址碑。 ◆明智光秀は、北国道(西近江路)と湖上交通との要衝にあたるこの地に、元亀三年坂本城を築いた。
 この城は琵琶湖に臨む典型的な水城で、しかも築城に造詣の深い光秀だけに城は、豪壮華麗で、安土城に次ぐ名城といわれていた。ここで辺り滋賀郡を支配し、民政は行き届いていたという。
 その後、光秀は丹波を平定し、天正五年ころから亀山城を築き、その城下町が現在の亀岡市の基礎となった。さらに同七年ごろ城の大改造を行い、明智にちなんで福智山となった。いまも福知山踊りには光秀を偲ぶ歌がうたわれている。

◆明智光秀は、美濃国の名族、土岐氏一族の出身。永録十年(1567)四十歳ころ織田信長の家臣となる。
 元亀二年(1571)山門焼き討ちのあと光秀は、湖岸に豪壮な坂本城を築城し、その初代城主となった。以後およそ十年間光秀は坂本城を本拠地として活躍した。光秀はすぐれた武将であっただけでなく当代一流の文化人と親交をもち茶の湯、連歌、詩歌などに造詣の深い文化人でもあった。

明智光秀公の石碑。 ◆天下統一をめざし、戦国時代を疾風のごとく駆け抜けた織田信長は、元亀二年(1571)比叡山延暦寺を焼き討ちすると、最も信頼する家臣の一人である明智光秀を、京都を扼する西近江の要衝、坂本に封じた。
 築城の名手であった光秀は、翌元亀三年、本公園の北方300mの湖岸に、安土城に次いで日本第二の名城と謳われた坂本城を築城した。坂本城には、姫路城のように大天主と小天主があり、城郭の範囲は、日吉山王祭のよびものの一つ、船渡御の神事が行われるこの七本柳にまで及んでいたとされている。
 なお、今も城、城畔、御馬ヤシキなどの字名が残っている。

『坂本城跡案内』より

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資料  

私見 今日の南近江攻め第一弾です。予想通り城跡らしきものはなく、なんとなく161号線を琵琶湖沿いに北上していましたら右手に坂本城跡を示す石碑があったので「あ、ここか。」と気が付いたくらいです。幻の名城と言われた坂本城もこうなってはただの公園ですね。光秀の石像もありましたが、あれって何かを見てつくってるんですよねぇ?これが光秀かと信じられませんでしたが、ここにあまり時間もとってられませんので足早に退散しました。
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