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久野城跡登城日:(2007.08.25) 所在地: 袋井市鷲巣 |
歴史 |
久野城の築城時期は、駿河に本拠を持っていた今川氏が遠江へ侵攻するための拠点として、明応年間(1492〜1501年)頃に造ったと考えられている。 歴代城主は、久野宗隆−元宗−宗能、松下之綱−重綱、久野宗能−宗成、北条氏重で、正保元年(1644)に廃城となった。 現在、城内には「土塁」・「堀切」・「竪堀」・「井戸」などが比較的良く残っている。また、小字名の「西堀」・「南堀」等が示すように、城の周囲に水堀を備えていたようである。 昭和54年10月1日に、市指定文化財に指定されるとともに、近年の発掘調査によって、屋根瓦や陶磁器などが発見され、徐々にその姿を現し始めている。 本城は、当地域の在地領主、久野宗隆が構築したものであるが、その年代は明応年中(1492〜1500)とも永正年中(1504〜1520)とも言われている。宗隆は今川氏に属し、多くの戦功を立てたが、孫宗能は永禄11年(1568)徳川家康の旗下に入り城主となり、掛川城・高天神城攻撃、小牧長久手の戦いなどに戦功を立てている。天正十八年(1590)家康の関東転封に伴い宗能は下総(千葉県)に移封され、代わって松下之綱が丹波(京都府)より入りて城主となる。その後松下重綱・久野宗能(再任)・久野宗成・北条氏重にいたるまで、八代凡そ150年間の居城であったが、正保元年(1644)廃城となる。四方に堀をめぐらし、『藩翰譜』に「当国第一の要害にしてたとい何万騎を差し向けても落つべくも見えず」と書かれている。今でも当時の井戸・空堀・土塁跡を残し、又城跡・東堀・西堀・北堀・高見などの地名によって当時がしのばれる。 『久野城跡案内板』より
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資料 |
私見 |
久野城は駐車場や縄張り図、詳しい案内板が設置され、かなり整備された城跡でした。ちょうど北堀にあたる駐車場から北の丸へ登ってみます。西側の景色が開けていますので現在は田圃となっている堀跡がよくわかるようになっています。 北の丸を降りると横堀を越え、二の丸を経て本丸にあがりました。実は横堀を越える手前の左手に土塁があり、ちゃんと「土塁」と書かれた看板があったのですがまったくわかりませんでした。というのもこの久野城、下草が伸びすぎなんです(-_-;。土塁も郭の起伏もほとんどわかりません。本丸なんて何がなにやら・・・・・。 とりあえず冬場に来られることをお奨めします。ただ夏場でも堀跡は田圃となっていますので、少し離れたところから見たときの久野城の様子はまさに城跡といった雰囲気が出ていました。また下草がないときにくれば『当国第一の要害』と言わしめた往時を偲ぶことができるんでしょうかねぇ。よくはわかりませんでしたが、お奨めだとは思いました。
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