Check |
下田城跡登城日:(2012.11.17) 所在地: 下田市三丁目 |
歴史 | 天下統一を進める豊臣秀吉と小田原北条氏の対立が表面化してきた天正十六年(1588)北条方の水軍の拠点として下田城が取り立てられ、清水上野介康英が城将となった。 海に落ちる断崖に囲まれた天然の要害を利用して築かれた海賊城である。天守跡と伝えられる城山の頂きから四方にのびる尾根の要所に曲輪が設けられ、延々と続く深い空堀の遺構は現在もよく残されている。 天正十七年(1589)十二月から翌年にかけて籠城の準備が行われ、雲見の高橋氏、妻良の村田氏等の南伊豆の武士が城に入り、小田原から副将として江戸朝忠、検使として高橋郷左衛門が派遣されてきた。天正十八年(1590)三月、秀吉の水軍脇坂安治、長曽我部元親、安国寺恵瓊による下田城攻撃が始まった。およそ50日の籠城の末開城となり、城将清水康英は河津三養院に身を寄せた。 下田城は、戦国大名北条氏が、豊臣秀吉との対決に備えて大改築した中世末期の山城である。 城は、北条水軍の拠点として、下田湾に張り出した半島に築かれている。尾根の要所に曲輪や物見台を配し、およそ七百メートルの長大な空堀が巡る強固なものだった。 天正十八年(1590)に襲来した豊臣方水軍は、一万人を超える圧倒的な兵力で海と陸から城を包囲した。籠城した北条方の軍勢は、清水上野介康英を城将に、およそ六百名程度であった。五十日あまりの攻防を経て、寄せ手の安国寺恵瓊・脇坂安治の起請文が出され、籠城軍は開城に応じた。 城址は四百年を経ているが、空堀の残存状態は良好である。北条氏が築いた山城の特徴である畝堀は、空堀の中に、侵入した敵兵の行動を妨げるために障害物(畝)を設けたもので、今日も目を凝らすとその形状を見ることができる。 『下田城跡案内板』より
|
資料 |
【地図を表示する】
|
私見 |
下田城にやってきました。現在は下田城址公園として整備された大変散策しやすい状態であり、駐車場・トイレも完備、夏場や女性にも優しいお城ですね。駐車場は2か所あるのですが、北側のものを利用したほうがやや近いように思います。そこから遊歩道をあがっていくとすぐに視界が開け、解放的なスペースに出ます。開国広場と名付けられているここは、周囲の尾根に守られるようになっています。『静岡の山城ベスト50を歩く』(サンライズ出版刊)に掲載されている図面では城の中心的な役割を持つ場所か?という記載もあり、興味深いところです。やはり尾根上の郭が狭いので十分なスペースが無さそうであることもに関係するのでしょうか。またここに掲示された案内板には往時を復元した様子が掲載されていますのでとても理解しやすくなっています。中央部から3方に広がる細い尾根状にびっしりと郭が造られ、各方面からの攻撃に備えられた構造ですが、よく見れば右側の尾根脇の堀を見れば、ところどころに畝が見られますね。畝堀は山中城が有名ですが、下田城でも随所で活用されていたのです。 途中から銅像のギャラリーと化しているのはご愛嬌。とっても難しいポーズで着替えをしている女性とか、気になる(笑)ものもありますが、惑わされることなく尾根筋を歩いていきます。やはり公園整備されたことで城跡としての雰囲気が損なわれているのでしょうけれど、縄張りを意識しながら歩いてみると、城好きにはかなりたまらないお城だなと感じるものもありますね。完全に通路となってしまっている堀切がその最たるものですが、でもその先にある横堀には感動ものです。堀底は草でところどころ見づらい状態ですが、よく見れば凸凹しているのが見て取れます。これが畝堀の遺構なのでしょうか。貴重な遺構は露出させずに地中で保存するケースも多いですからこれもそうかな。しかし発掘調査を実施されていなかったと思うので、本物かもしれませんねぇ。だとしたら今後の状態維持が心配になってきます(^^;。 もし整備を進められるとしたら、海から船で城内へと入るルートを分かりやすくなればいいですね。海賊の山城という面白い下田城がより一層城好きを惹きつけるものになりますように。
|