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諏訪原城

諏訪原城跡


登城日:(2007.08.25)
所在地: 島田市菊川
 
【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
諏訪原城の案内板より三段鍵堀と言われる諏訪原城五号堀  諏訪原城は天正元年(1573)武田勝頼の臣馬場美濃守氏勝を築城奉行として築かれた規模雄大な山城であり、当時の東海道武田領の最前線牧の原台地の東北角を占めた天然の要害であった。
   遺構は本丸・二の丸・三の丸・大手郭・帯郭・西の丸・搦め手・亀甲曲輪の八郭から成る特徴のある縄張りにより配置形態の上から「扇城」とも呼ばれた。
 自然堀と、人工の大、小堀が十三本あり、いずれも深くて急斜面を呈しているが、石垣は用いられていない。武田氏の守護神である諏訪明神を城内の一角に祭ったことから、諏訪原城と呼ばれるが、史料には城の変遷を示す牧野(原)城、金谷城、扇城という呼称が見られる。

『諏訪原城跡案内板より』

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資料
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私見
諏訪原城の天主台地 諏訪原城の空堀  現在も多くの堀を持ち、武田の城たらんことを強く印象づける諏訪原城。高台にあるのはわかるのですが、車で大手から近づいてみると、まるで平城のように平行移動だけで散策できてしまいます。背後に大井川を持ち、後ろ堅固の城といわれる同城ですが、かつてはどれだけ堅牢なお城だったのでしょうか。
 天正三年(1575)、掛川城に入った徳川家康は、諏訪原城を攻め、約二か月をかけて攻略。城兵は小山城へと走りました。その後は徳川の城として何度も修復され、天正十年(1582)、当時の城主であった松平康親が三枚橋城に移った際に空き城となり、やがて廃城となりました。廃城となった後から現在に至るまでまだここまでの姿を保持してくれているのかと思うと奇跡的な遺構の状態にただ驚嘆するばかりです。
 ただぼんやりと歩いていると方角がわからなくなってしまう縄張りの妙と、あちこちに作られた堀の見事さは他に類を見ないものですね。私が訪れたこの日は天主台地で発掘が行われていました。後日現地説明会が開かれましたが、このときはお話を聞くことができませんでした。 土橋によって分かれている諏訪原城の九号堀
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