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松尾城跡登城日:(2010.07.25) 所在地: 山武市松尾町松尾 |
歴史 | 松尾城は、北海道の五稜郭、長野県の竜岡城と並んで唯一明治維新後に築かれた稀少な城です。明治二年(1869)遠江国掛川藩主太田資美はこの地に所替えになり、荒地を開墾しここに築城しましたが、その城郭は三角形の星型でヨーロッパ風の稜堡式三稜郭の城でした。ちなみに、太田資美は江戸城を築いた太田道灌の子孫です。旧領地の掛川城は別名松尾城と呼ばれていたので、資美は故郷をしのびこの城を松尾城と命名しました。松尾の地名も資美によって名づけられたものです。松尾中学校に沿うこの道筋は城に通じる切り通しで、銚子・蓮沼から芝山・成田に至る古道でした。この坂を登りつめるとはるかに太平洋が望めました。資美は江戸城にある汐見坂にちなんで、この坂を汐見坂と名づけました。さらに高台の地形を巧みに利用して、敵を防ぐために四十五度の急角度に造られた。この胸壁は、当時の築城技術を伝える全国でも貴重な資料といえます。汐見坂・胸壁は松尾町の歴史の原点である松尾城跡の貴重な文化遺産の一つです。 『松尾城跡案内板』より
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資料 |
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私見 |
おそらく藩政時代最後の城であり、その構造が稜堡式であるという大変珍しい松尾城を訪れました。驚くべきは明治二年(1869)から築城が始まり、翌年ほぼ出来上がり「松尾藩」と称するようになったと思ったらその翌年に廃藩置県により藩は消滅という非常に慌ただしいところでしょうか(^^;。 しかしまぁなんで稜堡式の構造にしたのでしょうね。海岸線に築造される台場ならいざ知らず、海からは6キロほどの距離がありますし、当然ながら砲台もありません。結局藩主であった太田資美の好みだったのでしょうかねぇ。城跡であった場所の現状はかなり破壊されてしまっていますので、はっきり言って稜堡式を楽しみにしてきた私としては残念な状態です。三角形の鋭角な土塁が見れませんでしたが、それでもあちこちに土塁や折れを残す場所はあります。場外には城主の御住居跡があり現在松尾中学校となっています。また城の中心部である公庁跡には小さな石碑がありますが、一帯は自動車教習場となっています。この教習場の脇に残る土塁が一番見応えあるのではないでしょうか。また道路を挟んで民家の前にも立派過ぎる土塁がありますが、これも遺構なのでしょうか・・見事すぎてちょっと心配になりました。 そうそう、近代に建てられたということで建物遺構も残っています。御住居の一部である書院が匝瑳市八日市場の民家に、そして長屋門が市内の民家にあるようですよ。未確認ですが。
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