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道竹城跡
登城日:(2004.01.02)
所在地: 岩美郡岩美町新井
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
岩美中学校脇にある道竹城跡 地元の方によるものでしょうか、供養碑があります。  『因幡誌』によれば、文正元年(1466)因幡国守護である山名勝豊は、巨濃郡岩常の二上山城から高草郡布施にある天神山城へ移り住んだ。そのため山下の治安が乱れたために、天文の頃に地元の要請があり、但馬山名家から三上兵庫が迎えられ、二上山城へ入った。
 しかし二上山城は高い山の上にあり、不便であったため新井村に新しく道竹城が築かれたのであった。
 永禄の世になると、次第に尼子の勢力が衰え、毛利の勢力が因幡に及ぶようになると、三上兵庫(山名豊弘)は武田高信や毛利氏と結ぶようになった。しかし永禄七年、因幡守護山名豊数の軍勢に攻められた三上兵庫はあえなく討死、道竹城は以後廃城となってしまった。

『日本城郭体系14』新人物往来社刊参照

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資料
 

私見
社がある部分には削平地が。  道竹城跡は、岩美中学校の後者脇にある標高194メートルの山上にありました。最初は校舎裏手に回りこんで車が通れそうな幅の山道を上がっていったのですが、全然関係ない山にでてしまいました。たしか仙英禅師が祀られていたと思います。間違えやすいので注意しましょうね。
 ほんとの道竹城跡がある山へは岩美中学校のグラウンドを横切り(ってほんとに横切っちゃ駄目、迷惑にならないように通りましょう)、プール南にある細いあぜ道を進んでいきます。しばらくいくと右手に鳥居がありますのでそこをくぐってひたすら道なりに登っていくと山頂に到達することができます。ここが道竹城跡です。現在は小さな社と、道竹城関係者?への供養碑が建てられています。鳥居がある削平地より3メートルほど下がった南側にも削平地が見られます。
 近所の方にお話を伺ったところ「よく見たら石垣もあるよ」とのこと。普通このような山城なら「何もないからやめとけ」と言われるのが関の山だったのですが、ものすごい期待して登ったのですがよくわかりませんでした。(;_;)まだまだ修行しないといけませんね。>ワタクシ。
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