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甑山城跡 登城日:(2004.01.03) 所在地: 岩美郡国府町町屋 |
歴史 |
甑山はいろいろな伝説がある山です。例えば、武内宿祢が因幡国に攻め入った時、この山に甑を据えて食べ物を蒸し、兵をねぎらった。その「こしき」にちなんで甑山と名づけられたとか、あるいは、大昔、岡益のタタラ大名神が甑山と今木山をモッコにになってここまできたが、にない棒が折れて、この地に置き去りにしたというような伝説です。 しかし、最も有名なのは山城です。建武四年(1337)平因幡守貞泰が要害として甑山城を守備していますし、天正元年(1573)には山中鹿之助が鳥取城主武田高信との合戦の時、陣取った城です。武田高信は五百の兵でこの城を攻め落とそうとしましたが、美歎川や国府川の天然の濠に囲まれた甑山城を攻め落とすことができず、逆に失敗し、鳥取城に逃げ帰ったということです。この合戦は「たのも崩れ」と呼ばれており、八月一日、八朔の日であったのでそういわれています。 『甑山城跡案内板』より
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資料 |
私見 |
鳥取県はほんと里山が多いですね。しかもよく見ると頂上部分が平地になっていたりするのでどれを見ても城跡っぽく見えてしまいます。この甑山もいかにもそれっぽい見た目になっています。標高80メートル(比高60メートル)なのでたいしたことないのですが、周りの山々と明らか二違うのは傾斜が急だということでした。ですので登城道もかなり大回りに傾斜を迂回しながら登っていきますので、比高60メートル程度と安易に考えていると結構息があがってしまいます。 登城口は、山の脇を走る街道を折れ、山の裏手側に廻るような感じで奥にある墓地の駐車場に車を停めることができるようになっていました。そこからすぐに山の裏手に回りこむ道が続いています。 桐山城を出た後、山名豊国を助けるべく山中鹿之助がこの城にいたんだと思うと興味が湧いてきます。 遺構はというと、途中かなりくっきりとした空掘跡があったのと、頂上部の平地の周りには土塁がぐるりと弧を描いていたのが確認できました。が、それが果たして昔のものなのかどうかはよくわかりません。今はただ展望台が作られた頂上部に立ち、眼下の街道を走る車にぼーっと視線を送ることだけです。
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