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丸山城跡
登城日:(2004.03.21)
所在地: 鳥取市丸山
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
鬱蒼と木々が茂る丸山城跡 ◆史跡 奈佐日本助由縁の地
 この山は、天正九年羽柴筑前守秀吉が鳥取城を攻めた久松戦の丸山城跡である。
 ここの城首を奈佐日本助と呼び元但馬奈佐谷の領主であったが、但馬地方の秀吉戦に敗れてより、鳥取城主吉川式部少輔経家に仕えこの城を守りつつ毛利軍から海をこえて送ってくる兵糧を舟で袋川から雁金砦を経て、鳥取本城に運び城兵3000余人の命を保っていた。
 一方秀吉軍は本陣を久松山の東太閤ヶ平に構え難攻不落の鳥取城に日夜猛攻を続けた。鳥取本城は奈佐日本助の巧妙な兵糧輸送により頑強に抵抗を続けたが才知抜群の秀吉は万策ののち遂に食糧攻めを決意し宮部善祥坊をしてこの唯一の補給路雁金砦を奪取せしめた。このため連絡を断たれた本城は大混乱のうちついに落城したのである。雁金の首将塩谷周防と共にその責を負い、天正九年十月二十五日この地に無念の涙をのみ自刃した。
 武士道に徹し身命をかけて戦った両雄の忠勇義烈は真に崇高の極みである。慈に慰霊碑を建立し永くその誉を讃え英魂に捧げる。

『現地案内板』より

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資料
 

私見
現在の唯一の登城道か。  丸山城は、天正九年(1581)吉川経家が鳥取城の出城と築いた城でした。城主として山県九左衛門尉・奈佐日本助らが入りました。丸山城の西側の山麓には千代川が流れており、船をつかって毛利軍からの武器弾薬・食糧などの補給を受けて、それを雁金城を経由して鳥取城に送っていました。
 丸山城跡は、以前は山頂にお寺があったようですが廃寺となったようで、現在はどうなっているのかよくわかりません。まわりを一周してみたのですが登城道がなさそうです。唯一あるのが北側からの急傾斜の階段があるのですが、立ち入り禁止になっています。雁金城との間には民家や道路などができ、とても大事な補給路だったことはわからない状態ですねぇ。
 是非ともここも史跡として一般に公開していただきたいんですが、いかがなもんなのでしょうか。
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