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亀居城跡
登城日:(2003.10.26)
所在地: 大竹市小方2丁目、亀居公園
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
亀居城天守台  亀居城は慶長八年(1603)から福島正則が五年の歳月をかけ築城した。この城の規模は面積約十万平方メートルで城地が亀の伏した形に似ていたことから亀居城と称されていた。しかしこの城は完成間もない慶長十六年(1611)に幕府の圧力のため取り壊しになった。

 慶長五年(1600)、関ヶ原の合戦に敗れた西軍の盟主毛利輝元は、領国八カ国の内、防長二ヶ国を与えられ、その本城広島を去り、東軍に味方した豊臣恩顧の武将福島正則が芸備二ヶ国を与えられて、そのあとに入りました。広島に入った正則は直ちに領国の経営に乗り出す一方、小方・三次・東城・三原神辺に支城を置いて守りを固めました。このとき小方の武将には甥の福島伯耆(一万石)を配備して、慶長八年(1603)から築城をはじめました。築城に際しては、水野次郎右衛門が総奉行、片尻飛騨が大工棟梁として指揮にあたりました。五年の歳月を経た慶長十三年(1608)にこの城は完成しましたが、不幸にして城将福島伯耆は完成の前年他界したので、これに代わって守将山田小右衛門、森佐助の両名が兵を率いて入城しました。
 海に面したこの城の規模は面積十町歩(992アール)、周囲十八町(1960メートル)におよび、山頂に本丸、これに二の丸、三の丸、有の丸、なしの丸、松の丸、名古屋丸、捨の丸の八台が続き、本丸と有の丸の横に詰の丸、その下に鐘の丸、妙見丸があって、合計十一台よりなり、また海に面しない部分の周囲には、新町川の流水や海水を導入した堀や、から掘が堀めぐらされていたと言われています。なお、この城が亀居城と称されたのは城地が亀の伏した形に似ていたことに由来します。
 かくして亀居城は広島本城の支城として、毛利氏に対する軍事的見地から脚光を浴びましたが、この頃正則に対する幕府の圧力は非常に厳しく、完成後間もない慶長十六年(1611)、この城は取り壊される運命となりました。 亀居城天守台 ◆亀居城の石垣の刻印
 城は「建てる」とはいわずに「築く」といいます。城の威力は建物よりも、石垣の要害に負うところが大きいからです。
 その石垣の石に、刻印を付けたものが慶長ー寛永(1603〜1642)の頃の築城に著しく見受けられます。
 刻印の目的は種々考えられますが、亀居城の場合は、石の出荷を厳しく督励するために仕事を請けたグループごとに、目印のマークを彫りつけさしたものと思われます。
 石垣は、花崗岩で築かれていますが、山園ものは堆石岩(水成岩=玖珂層群)で出来ています。
 この石垣のすべての石が、島や海岸から莫大な労力で運び上げられたものです。
 亀居城の刻印は、四十二種類ー264個が発見されており、このうち広島城の刻印と同型のものが、二十一種類もあります。
 このことは、両城とも福島正則が普請したという、一つのあかしとなります。

『亀居城跡案内板』より

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資料
 

私見
亀居城本丸南側の石垣。  亀居城跡は現在亀居公園として大竹市内を望める標高88メートルの高地に位置しており、駐車場へと登っていく車道の脇を山陽自動車道が通っています。駐車場は第一、第二と二ヶ所設置してありますが、上のほうは2台程度しか停められないので要注意です。
 また、国道2号線北側に城址碑と案内板が設置してあるところから歩いて登るのが一番の近道のようですが、車だとぐるっとまわっていかないといけませんのでさらに要注意(^^;
 さて、広島に入封してきた福島正則が築いた支城のうちのひとつ亀居城にやってきました。石垣が豊富にあるのはなんともわくわくしますね。郭だけでも11つもあるという支城とはいうもののその規模の大きさには驚きです。
 特に本丸、天守台周辺の石垣は見事なのですが、どうも上部の石垣は復元の際に史実を考慮せずに組んだのであやしいとか・・(^^;。戻ってきてから読んだ文書にそう書いてあったのが悔しいです。わかってたらどの辺がそうなのかチェックしたのになあ・・。
 しかしこんなに立派な山城をすぐ取り壊さないといけなかった正則の無念さはすさまじいものだったでしょうね。私なんてこうやって文章書いててWindowsが固まったら・・しばらく何もやる気がでませんが(笑)。
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