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金鑵城

金鑵城跡

登城日:(2000.08.13)
所在地: 小野市昭和町 夢の森公園
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
金鑵城へ 広い郭が復元されています 城が築かれる以前には、弥生時代の集落が営まれていました。当集落の所在する青野ヶ原台地は、標高約94mで、台地下とは60mの比高差があります。このような高い場所に営まれた集落は、高地性集落とよばれています。この集落は、弥生時代の中期から後期(1〜3世紀ころ)にかけて、日常生活の不便な高い所をわざわざ選んで設けられたもので、瀬戸内地域や大阪湾沿岸に広く分布しています。見張り、軍事的施設、争乱による逃げ場所、烽火台などの役割が想定されています。
 当遺跡は、加古川沿いの内陸部に営まれた珍しい例で、目の前に加古川が見渡せることから、古くからの交通路でもあった加古川を通して伝わってくる情報をつかみ、それをメッセージとして段丘下の集落へ伝えていたのでしょう。
 6棟の竪穴住居を検出し、1〜6号住居としています。1号と6号住居は、円形のものですが、他のものは隅のみが丸い隅丸方形のものです。すべてが同時期のものではありませんが、出土遺物からすれば、弥生時代中期末ごろに中心があるようです。平面復元した1号住居は、直径約5mの規模ですが、北東部に入口とみられ中央部には炉か煮炊き施設とみられる大きな穴が認められました。

復元された櫓  当城は、青野ヶ原台地上の遠望がきく、要害の地を選んで築かれた山城です。ここからは、河合城堀井城小堀城など室町時代から戦国時代にかけて市内に築かれた中世城郭を見渡すことができます。城主は、三木城の別所氏の持城となっています。
 台地先端部に「主郭」と「西の郭」があり、その間には幅約20m、深さ9mの堀切が掘られ、木橋が唯一の通路となっていました。主郭は、東西50m、南北80mの規模で、周囲には、土塁と呼ばれる土の壁がめぐらされていました。北西部に土塁が途切れるところがあり、城内への入口、虎口と考えられています。そこから城内に入ると礎石建物(建物跡1〜3)、倉庫施設、煮炊き施設、集石遺構などがありました。また、北東隅部からのびる先端部には、見張りのための櫓が設けられていました。
 城内からは、甕、壷、擂鉢などの陶器、茶碗などの磁器、茶臼などの石製品、土錘などの魚労具、刀、鞘、笄などの武具類、瓦、釘、壁などの建築資材、硯、水滴など文具類や銅銭など多様な遺物が出土し、当城が長期間にわたり武士達の生活と防御の場となっていたことがわかります。
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資料 【地図を表示する】
 

私見
5mはある堀切 西の郭  ここ金鑵城は、正平十一(1356)年に赤松氏の家臣であった中村景長により築城されたと言われています。小野市が以前より発掘調査をしていたところですね。実は1ヶ月ほど前にも来たのですがまだその時はブルーシートで覆われていて何も見えませんでした。で、今日の一般公開初日に再度やってきたわけです。
 1ヶ月前とは全然印象が違っていて、すっかりきれいになってます。遺跡の跡に作られた城という特異性からか、ほかの中世山城とは趣向の違った城跡となっています。まず駐車場のすぐ横に炉跡が復元されており当時の(といってもこっちは室町時代の城のものじゃないでしょうねぇ。)生活を窺い知ることができます。そしてすぐ前には木橋が主郭への通路となっており、その下には幅約6〜7mほどの堀切を確認することができます。この堀切は立派です。
そして主郭には全体を約1.5mほどの高さの土塁が復元されており、土の城であることを表現されています。郭の中央には礎石建物の跡が3箇所ほど復元されています。また南東部には井戸跡がつくられています。もっともこの井戸はあくまで推測でつくられたものですが、この城が金鑵城であることからどうしてもはずせないものだったのでしょうね。
 主郭からさらに東には独立した郭があります。ここも小さな堀切を切られた先に櫓台が復元されています。東部の小野市を一望できる位置に作られた櫓台に登りたいところですが、ここはあくまでも見るだけの櫓台のようで、登ることは禁止されています。またこの郭の横には帯曲輪もあり、なかなか堅牢な山城であることがわかります。
 小野市の城はまだまだ位置がつかめずまわれてませんが、ほかにも探してみたくなりました。
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