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高砂城跡登城日:(1999.01.16→2010.09.04) 所在地: 高砂市高砂町東宮町、高砂神社 |
歴史 |
高砂城の記録はあまり残っていない。はっきりした起源は不明だが、梶原氏が治める城として天文七年(1538)に登場している(『高砂市史・高砂町市史』)。 古くは寿永三年(1184)に、梶原景時が播磨国の守護として命じられたのがきっかけのようである。 高砂城が「海城」として改めて登場したのが、天正六年(1578)の羽柴秀吉による三木城攻めの頃からである。三木城主、別所長治の有力武将であった高砂城主、梶原平三郎衛景行は、世に言われる『三木の干殺し』に対して、最後まで兵糧の供給基地として播磨灘の海上を押さえていた。 そこで、秀吉はこの高砂からの兵糧の道を絶とうと高砂城攻めを開始。寄せ手は一千騎で攻め寄せましたが、景行は三百余騎で、毛利の援軍の甲斐もあって見事打ち破った。が、その後の秀吉軍の大軍の前にはなす術もなく、あえなく落城の憂き目となった。 その後、慶長五年(1600)の後に池田輝政が播磨に入り、姫路城を築いたが、同時に播磨の海の守りを固めるために高砂城も築いた。中村主殿助正勝が城主となり、大規模な構えの城を形成させ、高砂は城下町として生まれ変わった。 しかし、その立派な城も元和元年(1615)に出された『一国一城令』により破棄され、短い歴史を終えた。 参考資料『ひょうごの城紀行(下)』神戸新聞出版より
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資料 |
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私見 |
この高砂城も神吉城、三木城、志方城などと同様、大軍を擁する秀吉軍に果敢に反抗し、そして散っていきました。この勇敢さ、あるいは愚直さとでもいうのか、播磨武者特有の気質なんでしょうか。高砂城跡である高砂神社ですが、神社巡りをしていると思ってもかなり立派なものなんですね。立葵の紋を持つ山門をくぐると、左手に「池田輝政公高砂城趾」の石碑が建てられていることに気づきます。そうなるとその奥に立つ銅像は輝政公なんだなと思うわけですよね。でもこの人はまったくの赤の他人です。工楽松右衛門さんという方です。18世紀の方で、帆布を発明されたということです。なにやら右手で何かを訴えかけていますが、よく見れば左手に持っているのがその帆布なのでしょう。 おっと、話がそれました。高砂城でしたね。神社境内の隅に石材が無造作に積み上げられているのが分かりますが、その中に矢穴を持つものが含まれていますよ。これはもしや城のものなのでしょうか。(^^; 城の遺構はほとんど残っていない高砂城でしたが、代わりに近所の十輪寺にいって梶原平三郎衛景行の墓石を拝んで帰りましょう。ただ私には全然見つかりませんでした(;_;)。
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