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殿原城跡
登城日:(2002.08.13→2011.01.30)
所在地: 加西市笹倉町
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
殿原城主郭を東側から 藪がなくなった殿原城  足利尊氏・直義兄弟の争いが表面化した観応の擾乱は、播磨においては観応二年(1351)足利尊氏と石塔頼房(足利直義方)が光明寺で対峙した。この時黒崎山城主の赤松肥前守左衛門尉朝範は、その功により東播8郡を与えられ、在田荘に築いたのが殿原城(笹倉城)である。朝範は、同時期に段の城野間城も築き、広範囲にわたって活動していたようであった。
 朝範に次いだ則康は早世したため、その後赤松兵庫頭弥四郎祐利が入り、笹倉氏を名乗るようになった。以後則実、則氏、則秀、則賢と続いたが、則賢は天正六年(1578)の三木合戦の際に籠城、同八年に自刃した。その子則知は近江長浜にて隠棲し再起をはかろうとするも、その地で命を落とした。則知の子は長浜姓を名乗るようになり、城地のそばに移り住んだ。

『都道府県別日本の中世城館調査報告書集成』東洋書林刊参照

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資料 【地図を表示する】
 

私見
殿原城主郭 主郭を取り巻く土塁  加西市笹倉町内にある殿原城を探そうとして地図を見てました。丘城とされている殿原城にふさわしい丘陵地はここしかないだろうと思える場所があったので出かけてみました。が、なかなかその手がかりがつかめず諦めようと思ったんですが、地元の方のお話でなんとかつきとめることができました。
 どうやらこの城は市内でも観光地となっているようでたびたびツアーが組まれているようなのですが、その場所が民家の敷地内ということで軽々しく足を踏み込むことができません。一回り歩いてみたんですが登城口がありませんでしたので、その民家から登ることができるんでしょうか。残念ながらそれ以上時間を割くことができず撤退しました。
 過去に訪城を断念したり、途中で無念の撤退をした事も書いているといいことあるものですね。当サイトをご覧いただいていた方から情報をいただけたおかげで、殿原城(笹倉城)の藪が伐採されていることを知りました。前回同様北側の坂道をあがっていき、畑に出ます。そこで作業をされている方に声をかけて登城開始です。以前の藪が嘘のようですよ!なーんにもありません。更地とさらにその奥に見える高台も地形が露わになっています。言葉に言い表せない感動がそこにありました。と言っても以前の状態を知っているからなのかもしれませんが。
主郭南側の横堀 南の二郭  小走りで駆け寄ると、東側にのこる横堀と竪堀?を確認。中心の高台を取り巻くような帯曲輪をぐるりと回りながら地形の凹凸を確認していきます。南側は視界が広がり、やや斜めですがここも広い郭があったことがわかりますね。そして主郭との間には横堀があり、そこをまたぐと土塁が周囲を囲んでいたのがわかります。主郭には櫓台状の高まりがあり、そこから改めて周囲を見渡します。ここにあのものすごい藪があったのが信じられません(^^。
 じっくり見ていくと主郭南東部も細かく作りこまれていて面白いです。が、私にはなかなかイメージしにくい状態です。実はここに喰い違いの虎口があって、東に位置する三郭へとつながるのですが、三郭とは完全に横堀で遮断されています。またその堀底を歩いて南へ下っていくとクランクがあり、さらなる広がりを感じさせてくれています。残念ながらそれ以上は破壊されていてよくわかりませんが、今見えるだけでも十分ワクワクさせてもらいました。もうすぐなくなってしまうのかもしれませんので、自分の目で確認できたことにほんとに感謝します。
 ところでこの殿原城は、城域で見れば麓の民家が建ち並んでいるあたりまで広がっていたそうです。極楽寺やその東側一帯も。現在でも水路が残り、おぼろげながらかつて水堀として流れていたのだろうかと想像させてくれます。また、お城と関係があるのかどうかはわかりませんが、西側には城よりも高い標高をもつ場所が隣接しています。普通に考えると何かあってもおかしくないのですが、地元の方はどう見られているのでしょうね。それにしても殿原城、いいお城でした。
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