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伊賀上野城跡登城日:(1999.06.28→2012.09.21) 所在地: 伊賀市上野丸之内 |
歴史 | ![]() ![]() ところが竣工直前、慶長十七年(1612)暴風雨のため天守が倒壊、そのうち大阪夏の陣で豊臣方の滅亡と武家諸法度による城普請の禁止により城は再び建てられることなく300有余年が過ぎた。 現在の天守閣は昭和十年(1935)川崎克氏が私財を投じて高虎の築いた基台に桃山建築の粋をあつめて再建したもので、わが国最期の木造天守閣である。 碧緑の上に見える城郭の美観は恰も鳳凰が翼をやすめる安らぎを思わせ、白鳳城の雅名もある。 (財)伊賀文化産業協会編纂「伊賀上野城」より ![]() ![]() 丘の上に構築した城郭での悩みは水脈の断絶である。浅井戸では水が湧かないので五十間の深井戸を掘り、井戸側から横へ三カ所の隧道を穿って抜け穴とした。 抜け穴は城を中心に四方に通じ、その長さ一里におよび、兵糧の搬入、外部との連絡、援軍を城内に引き入れる路でもあった。落城した場合も、この通路を利用して忍びの者をはなち城内を攪乱して奪取することも考えて設計された。 とくに秘密を保持するため抜け穴の出口と小天守に忍びの者を常駐させ、井戸の監視にあたらせ、藩士といえども井戸をのぞくことを許されなかった。
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資料 |
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私見 | ![]() ![]() 公園の南側にある駐車場側からスロープ状の進路を進んでいきますが、ここはかつて堀だったのですね。右側の高台は元作事屋、そして緩やかに弧を描きながら左へと進む先は城代屋敷があったところです。現在はタンクが置かれており、ガッカリ感は否めません。ただその奥の高台には筒井氏時代の天守跡を示す石碑が置かれていますので、要チェックですね。 そしてここからは天守が建つ本丸を見下ろす格好で視界に入ってくるわけですので、本丸が一番高い場所にあるわけじゃないんですね。西側に抜群の存在感を誇る高石垣からもわかるように、はるか西方の大坂城を意識した構造であるということなんですね。立派な枡形となった階段を下りて本丸を目指しますが、ちょっと不思議な感覚です。しかしこの辺りの石垣の荒々しい様相も素敵ですね。また北側には数年前に訪れた時に復元工事が完了した米蔵、柴小屋跡などの白い石垣が眩しいです。 ![]() 「攻防作戦の城は亡ふる時あるも、産業の城は人類生活のあらん限り不滅である」として伊賀の産業を陳列する場所を建設された川崎克氏のお考えは大変素晴らしいと思うのですが、上野城の天守台の上に模擬天守を建ててしまったことだけはずっとひっかかるものがあります(^^;。ですので今まで伊賀上野城大天守こと「伊賀文化産業館」の中にも入ったことがなかったのですが、今回は一通り見てみようと思い中に入って見ます。とその前に小天守をチェック。中には「忍び井戸」があります。今でも水を湛えているように見えますが、深さ五十間と言いますからものすごい工事だったでしょうね。案内板にあるようにほんとに抜け穴があったのでしょうか。もし現在それを活用した散策ルートを作ったとしたらものすごく人気が出そうな気がします。やってくれないかなあ。 ![]() ![]() 注目は最上階の天井ですね。著名人など多くの方の筆によるものだそうで、この伊賀文化産業館建設の記念に掲げられたそうです。不滅の産業城の象徴として寝転んで撮影させていただきました(^^;。なんだかお城に行ってるような感想がほとんどなかったですが、木造建築にされているところはいいと思います。今やすっかりしっくり来てる気もしますし、今後は地元のシンボルとして長く愛されていっていただきたいですね。 ![]() ![]() ぐるっと回って駐車場の方へ向かっていますと、立派な門が見えてきます。白鳳門だそうですが、かつての絵図にはこんな場所に門は書かれていません。どうも模擬門のようですね。なかなか貫禄がありますので戸惑ってしまいますが、こんなに背の高い門はありませんよね。天守も模擬ですが風格が出てきていますし、一方で現存の蔵は現在の暮らしの中で活用している、伊賀上野城ってよく知れば知るほど不思議ですね。
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