芥川山城跡 登城日:(2005.01.30) 所在地: 高槻市原 |
歴史 |
応仁の乱の頃、芥川平城に居城する芥河氏が没落するとかわって能勢氏が台頭し、細川高国政権下で能勢頼則が平城に加え、この地に新城を築いた。その新城が芥川山城であるとされている。やがて能勢氏は大永四年(1524)にこの地を去り、天文二年(1533)からは細川晴元の支配下になり、それも永くは続かず三好長慶が晴元を追い落とす格好で奪取、この地に芥川孫十郎を城主とした。 のちに孫十郎が晴元の反撃に呼応したがこれを打ち果し、飯盛山城に移る永禄三年(1560)までの間三好政権を磐石のものとしていく。 永禄十一年(1568)、織田信長に攻め落された当城は、織田方の和田惟政が入城した。翌年高槻城に移った惟政はあとを高山飛騨守に託したが、飛騨守の子彦五郎(右近)により元亀四年(天正元、1573)攻め落され、高槻城を奪われる。これにより、芥川山城の役目が薄れ、廃城となっていった。 『日本城郭体系12』新人物往来社刊参照
|
資料 |
私見 |
芥川山城がある三好山は標高182.7メートル(比高130メートル)、摂津峡の東に聳えています。どこから踏み込もうかと悩むほどの大城郭である芥川山城は現在数えられている郭だけで測ると南北、東西共に400メートル以上の縄張りが広がっています。我々は一番東側の郭から城域に踏み込んでいきました。山城といってもあまり傾斜を登った気はしないのがこの城の最初の驚きです。いきなり郭群の中に飛び込んだ格好となります。さて・・・どこからお話すればいいのかな、と迷うほどに芥川山城は良好に遺構が残っています。南側へと下っている竪土塁やその先の堀切が東側郭の大きなみどころでしょうか。 そして、土橋を渡ると南側に大きくせり出した郭が続きます。ここから主郭へと渡る手前に石垣が残っています。かなり崩れ落ちていますのがなんとも残念です。ここが大手道ですので、麓の集落からあがってくればここにたどり着くことになります。 最高所である主郭に到着です。かなり広大な削平地が広がっています。ここから大阪城も見ることもできたとか言われているのですね。主郭からは大きく北西と南への2方向に尾根が伸び、その上を郭が作られています。北側郭には虎口と堀切が、そして少し藪でしたが尾根先まで行くと止めの堀切がありました。 そして南側は20メートルほど下へ降りた先に大堀切と土塁が作られています。同行の方には申し訳ないかなと思いつつ、斜面を滑り降りて、堪能させていただきました(笑)。 そしてこのまま下へ降りていき、大手道に合流して城攻め終了です。一つ北側の監視用郭を見てませんが、大満足で降りてこれました。この芥川山城はまさに戦う為の山城といった雰囲気があちこちでしている気がします。南側の堀切までいかなければたいてい藪こぎもありませんし、たいした登山をしなくてもすみますので、是非お気軽にいってみてください。
|