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水尾城跡 登城日:(2002.05.02) 所在地: 茨木市水尾3−796、伯光稲荷神社 |
歴史 |
水尾城は、応仁の乱(1467〜)で全焼した紫雲山西方浄土寺の焼跡に造営された中世のお城です。
城のことについては「福井近郷古跡古伝上下」という和綴写本の中に、 @永禄九年(1566)十月二十日池田筑後守勝政、茨木城に発向し長田河原(市立斎場付近)に陣し、芥川の城の中村新兵衛高次、高槻城主入江左近将監らと相戦う。入江は富田の間に陣し、中村は総持寺村門河堤に陣す。入江・中村らは敗北し勝政は茨木城に帰陣す。 A永禄十年十月十日夜、南都大仏殿において三人衆(三好の一党)と義継(十二代将軍義晴の弟)は久秀(松永弾正)と相戦う。時に中村新兵衛高次、茨木佐衛門尉(城主)水尾の郷士(元は斉藤妙椿の浪人)平尾孫左衛門らは三人衆に属す。と記されています。 美濃の斉藤妙椿が没したあと、主家斉藤家の内紛のため平尾孫左衛門は、斉藤家と離れて西方浄土寺の焼跡・奥の院の勝光寺の東佐奈部神社の南、高瀬川に沿った一画に新しく環濠の砦を築いたのが「水尾城」のはじまり、元和偃武により退転したと思います。 この水尾荘は、のちに徳川幕藩体制により、水尾村・内瀬村・真砂村の三村に分かれました。 『水尾城跡案内板』より
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資料 |
私見 |
阪急京都線「南茨木」駅と「茨木」駅とどちらが近いか微妙なところにある水尾城はおそらくその両駅から歩いて20分ほど、でしょうか。私はこの日はJR「千里丘」駅から三宅城を見て、さらに沢良宜城を見てから水尾城を目指しましたのですでにへとへとでした。
まぁそれはさておき、この水尾城跡である、伯光稲荷神社はなかなか見つけるのが大変でした。しかしいざ目の前にするとただの小さな寂れた神社というだけじゃなく、城跡とまでじゃなくても砦跡らしい地形であることは感じ取れます。まわりを流れる水溝や一段低まった田圃であったり・・。 まぁ今は案内板1枚と小さな城址碑のみではありますが、なかなか・・・。
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