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青田山砦跡登城日:(2007.08.25) 所在地: 掛川市板沢 |
歴史 |
◆陣場砦 徳川家康の掛川城攻略の拠点 ここは、掛川市杉谷と板沢の頂点境で、もとは青田嶺といわれ、市の中心までは約1キロメートルの位置で二つの峰からなっている。西を西陣場その西を蛇バミ峠といい東を東陣場という。 永禄十一年(1568)、徳川家康は武田信玄と大井川を境にして駿河、遠江を分割することを約束し、遠州に進攻した。同年十二月今川氏真は信玄に駿河を追われ、掛川城の家臣朝比奈泰朝に身を寄せた。そこで、当時二十六歳の家康は六ヶ月にわたってこの城を攻めた。この掛川城攻めの際この山上を陣地としたので陣場峠とよばれるようになった。ふもとには、取手、矢崎などの地名が残っている。 また、天正二年(1574)、武田勝頼が高天神城(大東町)を攻めると、城主小笠原長忠は奮戦して浜松城の家康に援軍を求めた。家康は使者に向かって、「援軍が必要な時には青田山(陣場峠)に狼煙を揚げよ」と言った。しばらくして青田山より狼煙が三回ほど揚げられたが援軍は来ず、城兵の食料はなくなり、力がつきてついに武田氏に降参することとなった。 当時、ここを高天神城の信号所として家康は目をつけていたのである。 『青田山砦跡案内板』より
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資料 |
私見 |
徳川家康が陣城を築いて、城攻めを行ったのは数度あります。掛川城攻め、二俣城攻め、そして高天神城攻め・・・。この青田山砦は永禄十一年に今川氏真が籠る掛川城に攻めこんだ際に作られたものでした。 青田山砦があったとされる場所は、東陣場と西陣場とに分かれています。縄張り図で見ればかなり広大な城域を持っているのですが、いざ探そうとするとなかなか特定できません。「この辺なんだけどなぁ・・」と思いながら、細い道路をあがっていき、茶畑の中に入っていきます。もう絶対こんなところにあるはずがないというほどの奥に東陣場の案内板を見つけたときはまさに小躍りせんばかりでした(^^;。 この地は古くから塩の道が通っていたようで、碑も建てられています。ま、それはいいとして(笑)、東陣場から北西へ目をやると約2キロ先に建つ掛川城がぼんやりと見えています。今でもほとんど障害物がなく見えるその様はきっと当時見えていた景色であったことでしょうね(あくまで想像)。遺構状況よりもここから掛川城を眺めることができただけで大満足でした。
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